乳の方程式
Part34 『最後の希望』の帰還
「…」
男はスクリーンに移る光点にカーソルを当て、相対ベクトルの表示を読み取る。
次に、ピンマイクを口元に寄せた。
「ロイ・シュターデン大尉より連絡、マジステール計画統括部宛て、認証コード…」
感情の篭らない報告が続く。
「搭載艇とランデブー、外部に目立った損傷はない。呼びかけに応答はない。これより、船外活動でコンタクトする。以上」
ピ…
愛想のない電子音が、報告を締めくくると、ロイ大尉は次の行動に取り掛かる。
地球−月系まで約120万kmの深宇宙で、ロイ大尉の緊急艇『スキップジャック512』は、搭載艇『ラストホープ』をインターセプトしていた。
”地球から月までの3倍…ずいぶん遠出させられたものだ”
二つの宇宙艇は、互いのハッチを短いチューブで繋ぎ、ロイ大尉はその中で軽装備の宇宙服を着て作業している。
”スー…”
自分の呼吸音に眉をしかめ、ロイ大尉は時間をかけて気圧差を調整し、ハッチを開いて中に入った。
”エア正常、ふむ”
微かな不安を押し殺し、ヘルメットを取る。 心配していた『匂い』は感じられない。
「無人なのか?…いや…」
一つのカプセルが使用中だ、中身は…白く曇って見えない、幸いにして。
「…賞味期限は切れてるだろうな、哀れな奴…」
ロイ大尉は搭載艇のコンソールをONにし、記録を検める。
「映像と音声…」 船長の残した記録を見つけ、再生する。
『…示すしかない』
ロイ大尉はスクリーンに映る船長に向かって敬礼しようとした。 しかし、次の瞬間船長が胸を抑えて、苦しみだした…
「ぐぅぅぅ?」
船長は胸部に猛烈な圧迫感を覚えた。 息が詰まる。
スクリーンに手を掛けて、体を支えようとしたが失敗し、弾みで仰向けになって宙に浮く。
(まさか!?)
必死に首を傾け、自分の胸を見る。
ツナギが膨らんでいる。 中から何かが押し上げているのだ。
気密ジッパーが弾け、胸もとが裂け、中から弾ける様に飛び出す褐色の球体。
「『ティッツマッシュルーム』だと…ばかな!?いつ!?どこで!?女にしか寄生しないんじゃなかったのか!!」
船長の疑問に答えるものはいない…いや…
”答えは船長が知っているんでしょう…”
「ジャ…ム…」 青ざめる船長。 ついに彼にもジャムの囁きが聞こえてきたのだ。
彼の胸で震える『ティッツマッシュルーム』は、その胸に根のようなものを這わせていて、先は彼の体に食い込んでいるようにも見える。
しかし、痛みどころか違和感すら感じない。
「マハティーラが最後まで寄生されていたのに気が付かなかったわけだぜ」
一瞬ためらい、そして思い切って『ティッツマッシュルーム』を鷲?みにする。
両手が柔らかいものにめり込む、続いて胸を捕まれる鮮やかな痛み、甘酸っぱく重い波が胸に押し寄せる感触…そして。
「あ…ああ…ぐっ…」
甘い声で呻きそうになり、慌てて唇をかんで耐える。
”我慢することないのに…”
”そうそう…誰も見ていないよ?”
「このっ…俺のプライドをずたずたにする気なのか…ううっ…」
ズクン…ズクン… 静かに、重く、そして優しく、『ティッツマッシュルーム』が脈打つ。
うっ…ううっ… 甘く、切なく、深い優しい波が、体に漣の様に広がっていく。
無駄な抵抗と思いつつ、もう一度『ティッツマッシュルーム』を掴もうと手を広げ…
「なんてこった…」
太く節くれだっていた指は、次第に細くなり、優雅な曲線を帯び始めていた。
呆然と眺めている間にも、彼の手は脈打ちながら『彼女』の手に変貌していく。
「いっそ…昆虫のバケモノにでもなった方がましじゃないのか?」 絶望的なその口調までも、重厚なバスから優美なアルトに変わりつつ
あった。
”そんな事言わないで”
”そうそう…ほら見てよ…”
促されるように顔を上げれば、OFFになっているコンソールに写る自分の顔、それは若返りながら中性的に変わっていた。
「こいつは…」(悪くない…)
そう思ってぎょっとする、自分はジャムを受け入れ始めているのか!?
「こうなったら…薬で一気に…」 (死んでどうなる…)
「違う!これは俺の意思じゃない!ジャムの意思が」(そうかな…船長…)
やめろ! 叫んで胸を殴った。
鋭い痛みに気が遠くなっていった。
ヒクヒクヒク…
船長は失神した自分が宙に漂っているのを見ていた。
幽霊になったように、男の姿ままの自分が、女性化していく体を眺めている。
「不満そうだね」
背後からジャムが話しかけてきた。
振り返れば赤い少女が二人、宙を漂っている。
「ああ、むりやり性転換されて喜ぶ奴はいないだろう」
ジャムは小首を傾げるような仕草をした、妙に可愛らしい。
「そう?若返って綺麗になったから、喜んでもらえると思ったんだけど」
船長は呆れた。
「お前達なぁ、相手の意思を無視して勝手をするにも程がある!」ジャムに詰め寄る船長「お前達は俺達とトモダチになりたいと言ってい
たな。トモダチになりたいなら相手の意思を尊重しろ!いいか、人間にとって自由意思は、最も大事なものなんだぞ!」
「命より?」
「…時と場合によるが、まあそうだ」
「じゃあどうして貴方達はここにいるの?」
「なに?」
「だって、みんなここに、この任務を好きで引き受けたわけじゃないんでしょう?脅迫されたり、不当な罪を課せられたりしていやいや参
加したんでしょう?」
「…ああ…だから、この場合は命のほうが…」
「何人が死んだの?」
「…」
「自分の意思を曲げてここまで来て、仲間の命を失って。何が大事だったの?」
言葉を失った船長の前で、ジャムの顔立ちが少しずつ変わっていく、一人はマドゥーラ、もう一人はルウに。
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