乳の方程式

Part33 船長の責任


『ティッツマッシュルーム』がパイプから次々に飛び出してくるのを見て、船長はオットーの手を引きながら背後に飛び退った。

背中に柔らかい衝撃。

(マドゥーラ!?)

白い手が肩越しに伸びてきて、船長を抱きしめようとする。

「船長!」オットーが頭から突っ込んできて、三人はもつれ合って栽培棚の一つに突っ込んだ。

(ぐっ…)

アルミの支持枠に頭をぶつけ、意識が遠のく。

(だめか…)


…船長…船長!

目を開ければ、オットーの顔が目の前に有った。

「う…どうした…」

「しっかりしてくれ、皆が…」

「皆?…!」

恐ろしい光景だった。

オーナンスキーを初めとした8人は、『ティッツマッシュルーム』とジャムの触手に絡め取られ、最早身動き一つしていない。

いや、よくみれば時折身を震わせている…ヒクリ…ヒクリ…と

赤いジャムの体を通して見える表情は、恍惚に浸りきっているように見える。

「なんて…マドゥーラはどこだ!」

「ハッチを開けに逃げていった、直ぐ戻ってくるぞ」

「そうか…ブリッジに戻ろう」

「船長…船を爆破するのか?」

「ああ、キーの位置から最低二人は必要だ、すまんが手伝ってくれ」

オットーは頷き、二人はエアロックに向かう。


エアロック前で、脱ぎ捨ててあった10着の宇宙服を複雑な気分で見つめつつ、船長が船内用のツナギの襟に手を掛けると、オットーが

それを止めた。

「アンダーウェアだけにならなくても宇宙服は着れる、時間がない」

船長は頷いて、手近の宇宙服を着て手袋を止め、気密を確認する。

”オットー、急げ…オットー?”

振り返った船長が目を見開く。

オットーの首に赤い触手が巻きつき、オットーは口をパクパクさせて喘いでいる。

”オットー!!”

近づこうとした船長をオットーが身振りで止め、ハッチを指さす、何度も。

”ばか、一人じゃ…”

オットーの背後から次々と触手が伸びて来て、彼を絡め取り、何本かは彼の脇をすり抜け、船長に迫るって来る。

オットーは震える手で、それらを捕まえ、自分の方に引き寄せる。 そしてにっと笑ってサムアップ、その指にもジャムがが巻きつく。

”…許せ…”

船長はエアロックに入り、ハッチを閉じた。

扉のランプが緑から赤に変わるのを見ながら、船長は扉に拳を叩きつけた。


「…」

ブリッジに戻った船長は、無言でヘルメットを取った。

最早、彼に応えるものは誰もいない。

ヘルメットを宙に浮かべたまま、船内モニタを見る。

「妨害はまだ効いているが…ガス濃度は上がっているな」

不思議と気分が落ち着いているのは、ガスの効果だろう。

「正気を失うまであまり時間はない…地球に通信を取るにも、爆破装置を改造するにも足りないな」

辺りをぐるりと見回す。

「ブリッジを切り離すのは一人では無理…となると…」

船長はブリッジの先端にある小さなハッチを開けた。

普通のハッチよりかなり小さく、潜り抜けるのは一苦労だった。

「狭いハッチだ…まぁ、『棺桶』の間口が広くても不吉なだけだが」

抜けた先は思ったよりは広く、操縦装置兼用のコンソールと5つのカプセルが設置されていた。

「これを使う事になるとはな」

言いながらコンソールを操作すると船内放送が入る。

”警告、緊急脱出ボートが発進体勢に入りました。”

「判ってるよ…」

”主船体に緊急事態は発生していません、警告します…”

「ああそうかい」

船長は、コンソールを操作し、発進カウントを最短にセットする。

”緊急脱出ボート、発進まで30、29、28…”

船長は手近のカプセルに入り体を固定する。

「まだ死ねない…報告を残すまでは…」

”3、2、1、ignition”

ズン…

小さな衝撃を残し、『ニューホープ』の緊急脱出ボート『ラストホープ』は本船を離れた。


「これで俺の命も、もってせいぜい二ヶ月…」

緊急脱出ボートの生命維持装置は、5人の人間を一週間は生かしておける。 一人なら5週間、どんなに伸ばしても二ヶ月は持たない。

そして、内部に積まれているカプセルはコールドスリープ装置だが、こちらの技術も未完成で、二週間が精一杯だ。

地球までは後5年…船長が生きて返れる可能性はない。

「許せよ…皆。このままだと本船と共にジャムが地球に到達してしまう」

船長はコンソールのレポートシステムを起動する。

彼はこれから詳細な報告を残すつもりだった。

「この緊急脱出ボートは、本船より先に地球の辺りを通過する…報告が回収されれば、地球は間違いなく本船ごとジャムを…そして汚染

された乗組員を処分する」

ボイスレコーダとカメラを起動する。

「私は、宇宙船『ニューホープ』の船長…」僅かに目を伏せる「だった者だ。これから『ニューホープ』に起こった惨劇について報告をする。

残念なことに、報告を裏付ける証拠は何もない」

船長は言葉を切って、顎に手を当てた。

「この報告を最初に見聞きするものは、カプセルに横たわっている私のミイラ化死体を見つけていると思う。それをもって、私の報告が命

を懸けた訴えであったことを示すしかない」

再び言葉を切る船長。

(悪いな皆、先に逝かせてもらう。情けないが、これが船長としての、俺の責任の取り方だ)

【<<】【>>】


【乳の方程式:目次】

【小説の部屋:トップ】