第二十一話 骨喰の宿
15.薄桜の宿 その壱
「まじすてーる」
札を読み上げると、ごっと音を立てて風が過ぎ去り、辺りの景色が一変した。 男は瞬きして辺りを見回す。
「こいつはすげえな……ま、聞いた通りだが」
肩にかけたわずかな荷物の重みを確かめ、鳥居から続く道を進んでいく。 あぜ道の前で角を曲がると、少し先に桜を庭先に植えた農家が見えた。
「ほ。 大きな木だ」
立派な枝ぶりの桜を見送りながら、農家の軒をくぐる。
「ごめんよ。 ここは『骨喰いの宿』かい」
声をかけると、薄暗い奥から一人の女が現れた。 女は男の前に膝を揃えて座り、丁寧に頭を下げる。
「いらっしゃいまし。 お尋ねの通り、ここは『骨喰いの宿』でございます。 お泊りですか?」
「ああ、泊めてもらえるかな」
女が軽くうなずくと、その背後から薄紅色の着物をまとった娘が現れた。
「桜花。 お客様のおみ足を。 それから部屋へご案内なさい」
「はい……」
桜花と呼ばれた娘は、湯を張った手桶を土間に降りると男を上がり框に座らせ、彼の草鞋と足袋を脱がせて足をぬぐった。
「こちらへ……」
男を上がらせると、先に立って廊下を進み、奥座敷へと男を通した。
「膳と湯、どちらを先になさいますか」
「湯にさせてもらいやす」
「では、ご案内します」
「ふぅ……」
湯から上がった男が部屋に戻ると、桜花が膳と酒を運んできた。
「給仕いたします……」
「あぁ、すまねぇな」
食事を終えると、桜花が盃に酒を注いでくれた。 男は黙って盃を傾ける。
「障子を開けますか?」
「うん」
男が頷くと、桜花が静かに障子を開ける。
「へぇ」
農家に入るときに見えた桜の木が正面に見えた。
「立派な木でやすね」
「おほめ頂き、恐縮です」
桜花が微かに頬を染め、その様子に男が少し首をかしげる。
「名の通り、私は桜の精。 あの木が私なのです」
「へぇ……」
感心した様子の男に桜花が尋ねる。
「お客様。 あまり驚きませんね」
「ここの事は聞いてきやしたから。 妖が人を惑わす処だと……」
「ここへ来たものは、一人として帰らぬ。 ゆえに人は言う……」
『骨喰いの宿と』
声を揃えて言ったあと、二人は顔を見合わせて笑った。
「お客様は、何故ここに?」
「たいした訳じゃありやせん……知ってますかい? 今の世の中がどうなっているか」
「いいえ。 私は桜の樹ですから。 春が来たら花を咲かせて葉を茂らせ、秋が来れば葉を落とす……そうやって変わらぬ時を過ごすのみ……」
「それはうらやましい」
男の言葉に、桜花は首をかしげた。
「人の世はうつろいゆく、年が改まれば世も改まる……なんて偉い人たちは言ってましたがね。 近頃は年どころか、夜が明けたらよが改ま……いや昨日
までの世はどこに行ったか、探し回らなきゃならないようなありさまで」
「まぁ」
「知ってやすか? つい最近まで、江戸の真ん中にお城で、どえりゃー人がふんぞり返って、それに雇われてる殿さんたちがいて、あっしらはその人の
家来に雇われて、おまんま喰ってたんですよ。 それがまぁ、お城のお方は放り出されて、殿さんたちは知事さんに、ご家来集はお役人って名前を変えて、
世の中の仕組みががらっと変わっちまった。 いや、名前が変わったって、仕事がある人たちはいいでしょうけどね。 あっしらみたいな下働きは、どうしたら
いいかわかんねぇ。 『これからは、世の中も変わるから、お前たちも新しい生き方を見つけろ』って放り出されちまった」
肩をすくめて男は盃をあおった。
「それはたいへんですねぇ。 私など、桜の樹をやるしかありませんから。 世の中が変わったからと言って、明日から梅や松になるわけにもいきませんし」
「そう、それですよ。 知恵が回る奴や、金が回る奴はまだ何とかなるでしょうけどね。 あっしらみたいに何にもなくて、他にできることもない奴はどうしろっ
てんだか……世直しだぁ? だれが頼んだんだかそんなこと」
桜花は黙って盃に酒を注ぐ。
「変わるにしても、もっとゆるりと変わればよろしいのに」
「……ああ、まったくでさぁ」
男は再び盃を干した。 桜花は、盃を持った手に左手を重ねながら、酒を注ぐ。
「……一夜明ければ、何もかもが変わっちまう。 変われぬ奴には用がない世の中になっちまった……いっそほかの世にでも……なぞと思っていたら、
ここの噂を思い出しやして」
「……」
「あっちに居場所がないならば、妖の宿だろうが何だろうがいってみるかと来てみれば、懐かしくなるような場所じゃありやせんか……ねぇ」
ほんのりと目元を赤くしながら、男は桜の樹に向けて盃を掲げて見せた。
「あんたらは……変わらないんでしょうねぇ」
「ええ……」
短く答え、桜花は男の胸にしなだれかかり、細い指先で男の胸をすうっーと撫でた。
「私たちは変わりません……変わりようがないのです……」
男の胸に顔を埋め、上目遣いに男を見上げる桜花。 薄紅色の唇がわずかに開いて、男を誘う。
「そうですかい……」
男は納得したように言うと、桜花の唇に自分の唇を重ねた。 桜花の息は、桜の香りがした。
白い布団の上に、きゃしゃな桜花の肢体が乱れる。
「……ぁぁ」
組み敷かれた桜花が吐息を漏らし、男の体へ手足を絡める。
「いきやすぜ……」
男は己がモノを、桜花の秘裂へとあてがい、ゆっくりと沈めた。
くっ……
薄桃色の女体がビクリと跳ねる。
ヒラリ……
夜風に誘われたのか。 桜の花びらが一枚、男の背中へと落ちていった。
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