第十六話 窓辺
5.喪失
翌朝、青年はベッドの上で目を覚ました。
「……朝?」
起き上がろうとしたが、手足が鉛のように重い。 這うようにしてベッドを出て、洗顔に使っている小さな鏡で自分の顔を確認する
「……!?」
頬がげっそりとこけ、半病人の様な顔がそこにあった。 彼はよろよろと後ずさり、ベッドに腰を下した。
「いったいどうしたんだ?……昨夜は……そうだ、確かクラリスの事を……」
そう、彼はこの部屋にクラリスが現れたとしたら……と想像していたのだった。
「彼女が現れるとしたら窓から……風のように入ってきて……」
窓辺から入ってきた女が、ベッドに横たわる彼に……
ズクン……
「うっ?……」
彼は自分のモノに重苦しい疼きを感じ、触って確かめた。 冷たい快楽の残滓が、そこにねばりついていた。
「そうだ……そのまま彼女に……あれは夢?……」
夢だったのだろうか……クラリスが……女の幻が入ってきて……
−− ”……きて……”
甘く囁いた……この世のものとは思えぬ声で……
−− ”……きて……夢の中へ……そして……”
夢の中へ誘われて……
「君、大丈夫かね」
「うわぁっ!?」
青年は飛び起きた。 いつの間にかベッドの上で眠っていたらしい。
「おい、どうしたんだ? 顔色が悪いぞ」
彼を起こしたのは、昨日彼の話を聞いた警察官だった。 彼の顔を、心配そうに覗き込んでいる。
「起こしてすまんね」
「貴方ですか……どうしてここに?」
「うむ、君の様子が気になって……よもやと思ったが、君が六人目になっていたら大ごとだからね」
「ろ、六人目!?」
彼より前にここに住んでいた住人が五人、ここで首を吊っていた。 警察官は青年が同じことをするのを危惧しているらしい。
「ど、どうして僕がそんなことを!? 理由がありませんよ!」
「前の五人も同じだ。 首を吊る理由はなかった」
警察官は、事務的な口調で応じる。
「他の人の事なんか判りませんよ。 とにかく、僕にはく……あー、そんなことをする理由はありません」
「そうか……判った。 失礼するよ」
警察官は、彼に挨拶すると屋根裏部屋を後にした。 階段の下の方で、家主の老婆と警察官が話している声が聞こえる。
「……仕事に行くか」
彼は道具をまとめ、階段を下りた。
夜遅くになって彼は部屋に戻ってきた。 道具を片付け、上着を脱いでベッドに横たわる。
「疲れた……」
体は疲れているが、頭は妙にさえている。 天井の木の節を数えながら、朝の出来事を思い出す。
(きっと家主が警察を呼んだんだ)
いくら警察でも、建物の主や住人の承諾なしに入ってくることはできない。 毎朝決まった時間に仕事に出かける彼が、今朝は
降りてこなかった、それで警察に連絡したのだろう。
(前の五人の首をくくる理由が、調べきれなかっただけだろう……でも……)
この部屋の住人が、連続して首をくくったとなれば、部屋に原因を求めるのは当然かもしれない。 しかし病気や何かならともかく
自殺の原因が住居にある例を、彼は知らない。
(やっぱり……クラリス?……)
昨夜見た幻とも何ともつかぬ不思議な夢、それ以前に体験したクラリスが彼にかけた不思議な『術』、彼女がこの部屋の住人
を害したのだろうか?
(でも……想像がつかない……)
彼女がこの部屋に忍んできて、住人を吊るす……物理的に無理があるような気がする。
(彼女の仕業じゃなければ……自分で首を吊った……しかし……何故?……)
取り留めのない思考は、答えの出ない問題へはまり込んだ。 堂々巡りをするうちに、次第に眠気が強くなってくる。
−− ”……きて……”
甘い囁きが耳朶を打つ。 現実が色を失い、非現実がゆっくりと部屋を満たしていく。
−− ”……きて……夢の中へ……”
(クラリスが呼んでいる……)
意識がゆっくりと眠りの園に沈んでいき、体にまとわいついてくる柔らかな感触が体の自由を奪っていく。
−− ”……きて……夢の中へ……そして……”
股間に重苦しい感覚が集まってくる。 柔らかな感触が、シンボルに絡みつく。 意識せずに払いのける手が、シンボルを
刺激する。
「ううっ……」
柔らかく重苦しい感覚は、次第に甘い痺れへと変わり、体の奥で何かがそれを求めて蠢くのを感じる。
「ク、クラリス……」
苦しげな呻きが青年の口から洩れ、ベッドの上で半裸の肉体が何かを求めるようにもだえた。
−− ”……きて……”
しかし昨日と違い、求めるものは得られぬまま声が遠ざかる。
「ク、クラリス?……」
−− ”……”
いつしか声は聞こえなくなり、平穏と静謐が部屋に満ちた。 しかし青年は……
「ううっ……ううっ?……」
目を閉じたままの青年は、空を掴んで苦しげに悶え続けていた。
チュンチュン……
早起き鳥が窓辺に泊まって朝を告げる。 と、青年の腕がすごい勢いで窓辺を掴み、早起き鳥は驚いて逃げていった。
「……」
ベッドから起き上がった青年の眼は血走り、息が荒い。 獣のように唸りながら息を整えた彼は、ベッドから起き上がると、
昨日同様に鏡を取り出して自分の顔を改めた。
「……」
昨日と比べると血色はいい。 しかし、目は血走り表情はこわばっている。 鏡をしまった彼は、ベッドに座り込んで頭を抱えた。
「クラリス……何故!?」
自分が何を問うているのか、何に怒っているのかわからぬまま、青年は自答し続けた。
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