第十六話 窓辺

3.糸


 「クラリス……」

 青年は通りの向こうの窓辺の女性の名を呼んでみた。 彼女は首を傾けてほほ笑む、聞こえるはずはないのに。

 フ……フゥ……

 またあの仕草、掌から何かを吹き放つような。 少し遅れて彼のところに彼女の息が届き、胸元から滑り込んだ香しい香り、

それが肌に纏わりついてくるなんとも言えない感触……

 「はぁ……」

 恍惚のため息をき、彼は髪を書き上げようと右手を上げた。

 キン……

 あの不思議な音が響き、彼は腕が重く感じることに気が付いた。 無意識のうちに腕をゆっくりと回すと、何かに引っ張られる

様な感じがする。

 (なんだ?)

 不審に思い、窓辺に手をついて立ち上がろうとした。

 キン…… キン……

 今度は腕同様に体が引っ張られた。 彼はいぶかしみ、体が引かれる方向に向けて腕を回した。 すると、腕に何かが引っ

掛かる感触があった。 固いものではない。 引けば伸び、押せばたわむ。 指ではじくと……

 キン……

 (これが鳴っていたのか……糸?)

 手で見えない糸を掴み、引く。 すると体がそちらに引っ張られる。

 「こんな糸が……いつのまに?」

 ”フ……”

 クラリスの声に、青年は顔を上げた。 彼女は相変わらず窓辺で微笑み、右手の掌を上にして、こちらに差し伸べている。 と、

彼女は掌を返してこちらに見せた。

 ピクン

 「え?」

 青年は、クラリスが手を動かしたときに、体がクラリスの方に引かれるのを感じた。

 (じゃあこの『糸』はクラリスが?……あ?)

 今度は、体を見えない手が触っているような感触。 慌ててクラリスを見ると、彼女は右手をゆっくり回していた。

 「クラリス? これはいったい……あ……」

 見えない『手』が彼の胸を這い、肋骨の形をなぞり、そして下腹へ、その先へと降りていく。 

 「そこは……駄目だ……」

 青年の拒絶はクラリスには届かなかった様だ。 見えない手が彼自身を探りあて、掌で弄り始めた。

 「こんな……こんなこと……」

 見えない『手』の感触は、絹の布で包まれているかのようだった。 青年はズボンに手を入れて見えない『手』を振り払おうとした

 キン……

 『糸』が切れる音がし、同時に『手』の感触が消えうせた。 だがほっとしたのもつかの間だった。

 キン…… キン……

 再び糸の鳴る音がし、彼自身が『手』に包まれて弄られる感触が甦る。

 「こんな……だめだよ……」

 青年は、クラリスが操っていると思われる見えない『糸』と『手』と格闘し続けた。 だが、彼自身は少しずつクラリスの『手』の

愛撫で高まっていく。

 「だめ……あぁ……」

 絹の肌触りの細い指が、醜い男の欲の塊に絡みついた。 熱い愛欲の抱擁に青年は悶える。 見えない指の感触は、肌を

潜り抜けて直に男の奥の宝玉を撫でているかのよう。

 「ひぃ……」

 鋭い刺激に息が止まりかけた。 『手』が彼自身の珠を直に撫でて、いや磨いている。 擦られるたびに熱い精が湧き上がり、

体の奥が弾けそうだ。

 「だめ……だめだ……もぅ……」

 青年は床の上に崩れ落ちた。 腰の奥が燃え上がるのように熱く、彼自身は固く固まってズボンが弾けそうだ。 しかし、クラリス

の『手』は容赦なく彼を責め続ける。

 「やめ……あがっ……」

 体の奥で炎の塊が弾けた。 快感と呼ぶには激烈な炎のような感覚が一気に体を貫き、青年の体を弓なりに硬直させた。

 「ぎぃぃぃ……」

 ドク……ドクドクドクドク

 一拍の間をおいて、彼自身が精を吐き出す。 ようやく達した喜びに彼自身が打ち震える。

 「ひぃ……ひぃ」

 ようやく精の放出が止まった時、青年は失神寸前だった。 あと数旬『手』の愛撫が続いていたら、彼はそのまま息絶えていた

かもしれない。 それほど激烈な感覚だったのだ。

 ”フフ……フフフフ……”

 クラリスの声を遠くに聞きながら、青年は暗い眠りに落ちていった。


 翌朝、青年の姿が向かいの古着屋にあった。

 「二階の女の人と話がしたいのです」

 「そんなのはいねえ、昨日言ったろうが」

 取り付くしまもない老人を押しのけ、青年は店の奥に突進した。 作り付けの梯子段を見つけると、駆け上がるように段を登って、

上げぶたを跳ね上げて屋根裏部屋に上がる。

 「……ばかな」

 そこはガラクタの置かれた粗末な屋根裏部屋であった。 分厚く積もったほこりが、そこに長いこと人が入っていないことを示し

ている。 茫然として一歩踏み出すともうもうと埃が舞い上がり、近くにあった大きなクモの巣に捉えられる。 どう見ても人が

生活できる空間ではない。

 「……ばかな」

 下が騒がしくなり、青年を誰何する声が上がる。 どうやら老人が警官を呼んだらしい。 青年は茫然としたまま、梯子段を下りた


 「かけたまえ」

 警察署に連れて行かれた青年は、会議室のような部屋に案内された。 正面には上品なスーツ姿の壮年の警察官が腰を掛け

青年の前には紅茶すら出されている。 取り調べにしては待遇が良い。

 「あ、あの……すみません。 悪気はなかったのですが……どうしても……」

 しどろもどろになりながら申し開きをする青年の話を、壮年の警察官は黙って聞いていた。

 「……その女の人にどうしても会ってみたくて……つい」

 「五人目だ」

 「は?」

 「この五年間、あの古着屋の屋根裏部屋に女がいると言って押し入ったのは君で五人目だ」

 青年は目を見開き、目の前の警官の顔を見つめる。 一見無表情に見える男の瞳の奥に、苦悩と困惑の色が見えた。

 「『魔女がいる』『あの女はなんだ』『お前の娘か』そんな事を言いながら、男があの古着屋に入ってきては、無断で屋根裏に

上がり、我々に逮捕される。 そんな事がもう四回も繰り返された。 きみで五回目だよ」

 「それはいったい……どういうことなんでしょう」

 「聞きたいのはこちらの方だ」

 警察官は膝を叩いて首を横に振った。

 「今までの四人も君同様の証言をした。 『美人だが妖しい女があの二階にいた』とまくし立て『女に会ってみたいだけだ』と

繰り返す。 なぜだ?」

 「それは……」

 青年は言いよどんだ。 クラリスの事を話すべきか、クラリスにされた事を……

 「アレの事なら聞いている。 君もアレをされたのか」

 「……知っているのなら、話すことはありませんよ」

 恥ずかしさと怒りで真っ赤になった青年に、警察官は謝罪した。

 「侮辱するつもりはない。 ただ、君が今までの4人と同じ目にあったのか確かめないといけないでね。 君は個人の住宅に

無断で侵入したんだよ」

 「そうでした……」

 警察官は一通りの青年に話をさせ、彼の話が終わると難しい顔になった。

 「いままでの四人と同じだ。 あの下宿屋に居を構え、向かいの古着屋の屋根裏部屋に女を見た……」

 少しの間彼はだまって考えているようだったが、やがて顔を上げて青年に話しかけた。

 「古着屋の主の訴えがあるのでこの後で調書は作成するが、厳重注意で不起訴処分となるだろう。 協力してくれるかね」

 「はい」 青年は安堵して頷いた。

 「うむ、それから……できるだけ早く引っ越すことを勧める」

 「は?」

 青年は首をかしげた。

 「あのそれは……どうして」

 「君の前の四人は、もうこの世にいない」 警察官は沈痛な面持ちで続けた。 「みな首をつって死んだよ、下宿屋の二階で」

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