第十六話 窓辺

2.吐息


「貴方は……どなたです?」

 呟きが彼の口から洩れた。 その声が聞こえたかのように女性の口が動く。

 ”クラリス……”

 彼は、彼女がそう囁いたように感じた。 二つの窓の間には、通り一つ分の空間がある。 大声ならともかく、囁き声が通る

はずはないのに。

 「クラリス……」

 彼女の名を口の中で繰り返す。


 キン……


 またあの音がした。 しかし、クラリスに気を取られている彼は、音に注意が向かない。

 「貴方は……そこに住んでいるのですか?」

 クラリスは赤い唇に笑みを浮かべ、かすかに唇を動かす。

 ”私はここに居るの”

 「其処に居る……」

 ”待っているの……”

 「待っている……」


 キン……キン……


 彼がクラリスの言葉を繰り返す度に、奇妙な音が響いてくる。 が、彼はその音を気にすることもなく、唯クラリスと『おしゃべり』を

続けた……    


 チュンチュン……

 「……はっ」

 気が付くと、彼は朝日を浴びて窓辺で眠りこけていた。 顔を上げると、通りの向こうにクラリスが居た窓が見えた。 カーテンを

閉めているのか、今は真っ黒にみえる。

 「いつの間に寝込んだんだろう」

 呟いて、体を起こす。 不自然な姿勢で眠っていたせいか、体が重く節々が痛む。

 彼は書きかけのカンバスと絵の道具を片付け、出かける支度を始めた。 今日も通りで絵を売って食い扶持を稼がねばならない

 「クラリス……」

 彼女の名を呟いて手を止め、昨夜の女性は何者だろうと考えた。

 「帰りに寄ってみよう」


 夕方、辛うじてパンを買える程度の稼ぎは得た青年は、自分の部屋に帰る前に向かいの古着屋に寄ってみた。

 「すみません……」

 立てつけの悪い扉を開けると、古い布の匂いが彼の顔をはたいた。 首を突っ込むようにして中に入ると、店の奥に座っている

老人が、じろりとこちらをにらむ。

 「何が入用だい」

 「……いえ、あの二階の方の事でちょっと……」

 「二階? うちには二階はない、屋根裏に物置があるだけだ」

 「え?」 彼は瞬きした 「そんなはずは……昨夜みたんです、その屋根裏部屋に女の人がいて、窓から外を見ていたんです」

 「知らんね。 用がないなら帰りな」

 「で、でも」

 「帰りな」

 老人は彼から視線を外すと、机の上においた帳簿をつけ始めた。 青年はなおももごもごと口の中で何か言っていたが、老人が

相手にしないと判ると、うなだれて自分の部屋に引き上げていった。

 フン……

 鼻息で埃を吹き飛ばし、老人は帳簿にペンを入れた。

 
 夜、固いパンと水だけの食事を終えた青年は、昨夜のようにカンバスに向かっていた。

 「クラリス……」

 昨夜の女性の名を口にし、窓から外を見てみた。 街灯が照らす薄暗い通り、その向こうの古着屋の屋根裏部屋の窓は昼間

同様に真っ暗だ。 それを見ていると、昨夜の女性は本当にいたのか、自信がなくなってきた。

 「夢だったのか?……」

 振り仰ぐと、青白い月が彼を照らしている。

 「……」

 青年は失望し、窓を閉めてカンバスに向き直った。 と、月明かりがすーっと暗くなった。 さっき空を見たときには、雲一つ見え

なかったのにだ。


 キン……


 「?」

 青年が振り返ると、窓の向こうにうすい靄がたゆたっているのが見えた。 胸を高鳴らせて窓を開ける。 通りを埋め尽くす霧に

そこに浮かぶ古着屋の屋根裏部屋の窓、そこには 

 「……クラリス」

 昨夜と同じ向かいの窓に彼女がいた。 窓にしなだれかかり、口元だけでほほ笑んでこちらを見ている。 彼は窓に飛びつくと

勢いよく窓を開けた。

 「やっぱり、君はそこに居るんだ!」

 クラリスは、彼の言葉が聞こえたかのように頷いた。

 「下の老人は君の親……いや、おじいさんなのか? 君をそこに閉じ込めているんだね!」

 青年の言葉に、クラリスは曖昧に笑って見せた。

 「僕が君をそこから出してあげる! きっと……クラリス?」

 クラリスは彼をじっと見つめていたが、手を上げて掌を上にし、口元に寄せた。 そして、掌の上のモノを吹き払うような仕草を

した。

 「?」

 クラリスの息が霧をかき乱した。 向こうからこちらに、何かがやってくるように霧が渦を巻いていき。 それが彼の顔に当たった

 フワリ……

 暖かい風が渦を巻き、甘い女の香りが彼の鼻孔を擽った。 それはあたかも、クラリスの吐息がここまで流れてきたかのよう

だった。

 「クラリス……」

 蠱惑的な女の香りに体が痺れた。 じわりと手足が重くなり、上体を支える腕に力が入らなくなっていく。 青年は、窓枠に顎を

乗せて体重を支えた。

 ”……フ”

 彼女が笑ったような気がした。 再び掌を口で吹く仕草をする。

 「あ……」

 暖かい女の吐息が顔を擽る。 蠱惑的な香りが、シャツの襟もとから滑り込み、彼の肌の上を滑っていくのがわかる。 あたかも

女の手で肌を撫でられるかのように。

 「……」

 陶然とした表情で吐息の愛撫に酔いしれる青年。 そんな彼をじっと見つめたまま、クラリスは吐息を彼に投げかけ続ける。


 キン……

 キン……


 不思議な音の響く中、幻のような秘め事に青年は次第に心を奪われていった……

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