第十六話 窓辺

1.屋根裏部屋


 薄い黄色のロウソクが灯る。

 ロウソクの明かりに照らし出されたのは、金髪碧眼ま青年だった。

 「(またか?)……こんばんわ」

 滝の挨拶に、青年はぼそぼと呟くような日本語で応えた。

 「こんばんわ……」

 「(よかった、言葉は通じるか)趣旨はお分かりですね」

 青年は頷くと、一本の絵筆をロウソクの前に置いた。

 「僕は画家の卵……だったんです」

 どこか儚げな表情で彼は語り始めた。

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 「週おいくらですか」

 青年の問いに、癇の強そうな老婆はだまって指を三本立てて見せた。

 「……」

 薄い財布を開き、なけなしのコインを三枚取り出すと、差し出されたしわくちゃの手にそれを乗せた。

 「ついといで」

 老婆は店の奥にしつらえられた、梯子と見まがう急な階段に彼を案内した。

 ギシギシと悲鳴を上げる段を踏みしめ、老婆の後に続いて上に上ると、そこは狭苦しい屋根裏部屋だった。

 「ちゃんと掃除しておくれな」

 言い残して老婆は下に降りて行った。 青年はベッド以外何もない部屋をぐるりと見まわし、手に持っていたわずかばかりの

荷物をそっと床に置いた。 床は意外にきれいで、埃一つない。

 「きれい好きなのかな」

 独り言が思いのほか大きく聞こえ、あらためて一人を実感する。

 「さて……」

 低い天井に気を付けながら窓に近づき、古びた留め具を外して窓を開けようとした。 窓枠と窓の間から、細長く折りたたまれた

紙が落ちる。 隙間をふさいでいたらしいそれを開いてみると古い広告で、こう書かれていた。

 『本日開演!!マジステール・サーカス団!!』

 
 窓を開けると、夕方の町の賑わいが部屋の中に流れ込んできた。 下を見れば、狭い通りを老若男女が右へ左へと歩きまわり、

パンや肉を買い求めている。 彼がいるのは雑貨屋の屋根裏部屋で、格安という触れ込みで友人から紹介された部屋だった。

 「狭いことを除けば、いい条件かな」

 呟いて通りの向こうに目をやる。 向かいは古着屋らしく、こちらと同様に一階が商店で、二階は貸し部屋になっている様だった。

 ちょうどこちらの窓と向かい合う高さに、あちらの窓がある。 カーテンが無いので、空き部屋かもしれない。

 「……ん?」

 向こうの窓の奥で白いものが動いた……様な気がした。  

 「何だ?」


 キン……


 向かいの窓が気になり、顔を突き出すようにして様子を伺う。 が、それきり暗い窓の奥に動きはない。 軽い失望を覚えつつ

視線を落とすと、向かいの古着屋の店主らしい老人と目が合った。 こちらを怖い顔で睨んでいる。

 「……」

 慌てて窓を閉め、青年は荷解きを再開する。 小さなイーゼルを組み立て、カンバスを置くと、傷だらけの木箱を木炭を取り出した

 まもなく夜が来た。 青年には明かりの用意がなかったが、その夜は月明かりがあった。 幸い今やっているのはデッサンで、

作業を続けるのに支障はなかった。 カンバスの上に木炭を走らせながら、友人たちの批評を反芻する。

 『綺麗な線だが……勢いがないなぁ』

 『まとまっているんだけど……どこかで見たような絵だな』

 言われるまでもない。 子供のころ、彼には綺麗な絵を描く才能がある、将来はきっと立派な画家になると言われていた。 

言われ続けていた。 しかし、年を取るにつれ、その先の言葉が漏れ聞こえるようになった。 『うまい……けど』『いい絵だ……

でも』 彼の絵には魅力がない、人を引き付けるものがない、最初のうちこそ聞き流していたものの、やがて自分でもそれを感じる

ようになってきた。 そんなはずはない、きっと見る人がみれば……そう思って田舎を飛び出し、都会に出て街頭で絵を売るように

なった。 自分の絵の力を試すためだった。 しかし、結果は……

 ガリガリガリ……

 木炭がカンバスの布地の上で抗議の声を上げる。 力を入れすぎたようだ。

 「くっ……」

 手を止めて木炭を置き、布で手をぬぐう。 汚れた布に自分の手の汚れが移り、変わった模様になった。 まじまじとそれを見つめ

カンバスの絵を見る。 自分が懸命に書いたデッサンより、汚れた布の方が目を引く、その事に深い失望を覚える。 心なしか

デッサンもくすんで見える……

 「……?」

 ふと気が付くと、部屋の中が暗い。 窓へ目をやると、煌々としていた月明りがぼんやりしたものに変わっていた。

 「?」

 窓に近寄って外を見る。 濃い霧が通りを埋め尽くし、川の様に流れていた。 立ち上って渦を巻く霧のせいで、通りの向こうの

窓すら霞むほどだ。

 「……ん?」

 向かいの窓の中で、白い影が動いた。 霧の見間違いかと思ったが、確かに窓の中に誰かいる。

 
 キン……


 彼は向かいの窓の中の影を見定めようと、屋根裏部屋の窓を押し開けた。 はずみで霧が割れ、魔法の様に視界が開けた。

 「……」

 向かいの窓から美女がこちらを見ていた。 流れる黒髪、赤い唇、薄いブルーの瞳、そして薄い紫のナイトドレスに身を包んだ

美女がこちらを見ている。

 ……

 呆けたように彼は立ち尽くす。 彼女から目をそらすことができない、どうしても。


 キン……


 その彼の耳に、何かが聞こえた。 弦を爪ではじく、そんな音が……

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