第十四話 褥(しとね)

7.その夜


 ……火を

 ……火をつけて

 ……さぁ


 「?」

 鈴虫は目を開けた。 が、何も見えない。

 「空耳か……」

 腕で目を覆って、ごろりと寝返りを打つ。 昨夜は一晩中山の中を彷徨い、体がだるい。

 「桜花さん……」

 宿坊で一夜を伴にした女性の名を呟いてみる。 名前の通りの儚げな印象があったのだが、布団の中では鈴虫は圧倒されっ

ぱなしだった。 名前の通りに桜色に染まった肢体が、闇の中で妖しく踊り、彼を虜にした。 しかし、部屋が薄明かりに包まれる

頃になったとき、彼女は……

 「!」

 鈴虫は激しく頭を振った。 体の中で、心臓が激しく踊っている。 恐怖からか、それとも……

 「……寝よ」

 布団に体を預けて目を閉じる。 どっちにしても、もう彼女に会うことは無いのだ。 考えるても虚しいだけだ。

 「……そうだよな。 これでよかったんだ」

 目を閉じれば、普段は気にならない微かな音が耳につく。 遠慮のない車のエンジンの音、電子的なサイレンの音、誰かが

彼女でも連れ込んだのか微かな女の声……


 ……火を

 ……火をつけて

 

 「?」

 鈴虫は再び目を開け、じっと耳を澄ます。 


 ……火をつけて


 「桜花……さん?」

 声に出してみたが返事はない。 目を凝らしてみるが何も見えない。 その時、鈴虫は微かな匂いに気が付いた。 甘い香り……

桜花の吐息の様な……

 「どこから……?」

 闇の中、鈴虫は床を探ってみた。 大学生の部屋に床が見えるような場所はほとんどない。 床を探りながら、手に触れるも

のの見当をつける。 と、ガサゴソと音を立てていた手が固いものに触れた。

 「なんだ?……あ」

 思い出した。 宿坊で渡された『行燈』の箱だ。 蓋を取ってみると、甘い微かな匂いが立ち上る。

 「これを?」

 鈴虫は耳を澄ました。 微かな、本当に微かな声が聞こえた。


 ”火をつけて……”


 鈴虫は布団から出て、行燈を組み立て始めた。


 「これで……いいのかな?」

 木枠に和紙が貼られた行燈が、彼の前に置かれている。 中に入っているのは、やたらに太くて中ほどが細くなっている

『和ろうそく』というやつだ。 鈴虫は、ライター(コンビニで買ってきた)で、ろうそくに火をつけ、行燈組み立ての為にONにして

いた照明をOFFにする。

 「……」

 揺らめく炎の明かりが、和紙越しに部屋を照らし出した。 思ったほど明るくなく、常夜灯の方が明るいぐらいだ。

 「……?」

 揺れる炎が、部屋の壁に奇妙な影を映し出している。 まるで幽霊か何かの様……いや。

 「……煙?」

 影ではない、もやもやとした白い煙の様なものが行燈から立ち上り、それが光をゆがませているのだ。


 ”鈴虫さま……”


 声が聞こえた。 小さな声だが、はっきりと。

 「……桜花……さん?」

 鈴虫が呟くように尋ねると、行燈から白い煙がゆるゆると流れ出し、そろそろと鈴虫の方にやってくる。

 「……」

 鈴虫は、無意識のうちに煙から身を引いた。 しかし煙の方が幾段早く、蛇の様に鈴虫の足に絡み付いた。

 「あ」

 煙は妙に生暖かく感じられ、鈴虫の足に巻きつくようにして昇ってくる。

 「……桜花さん?」

 煙が肌を擽る感触に、鈴虫は桜花の指の感触を思い出していた。 おずおずと彼の足をさすりつつ、それでも女として彼の男を

求める桜花の指のたおやかな細い指を。

 「う……」

 煙が彼自身を捕らえた。 生暖かい感触が、彼自身を柔らかく包み込み、万遍なく這いずっている。 鈴虫は、その場にしゃがみ

込んだ。

 「うう……」

 煙が、彼自身をふわふわと愛撫していた。 煙の温もりが、じわじわと彼自身に染み透って行くような気がする。 鈴虫はたまら

ず、股間を握りしめた。 しかし煙を払うことは出来なかった。

 「ああ……ああっ」

 ぼーっと股間が熱くなり……その温もりが体に溢れる。 精を放ったか定かではないが、まどろむような心地よさに意識がすうっ

と遠のいていった。


 ”鈴虫さま……”


 ふわりという感じで意識が戻るった 目の前にわだかまる煙が喋ったと気が付くまで、かなりの時間がかかった。

 「桜花……さん?」

 煙と言うより、幽霊のような桜花が頷いた。 そのままたなびくように彼に身体を預けてくる。

 「わ……」

 煙でできた女体が彼を包み込み、少し遅れて桜花の温もりが彼に伝わってくる。 思わず伸ばした手が、桜花の体を通り抜け、

その腕にも煙が絡み付いてくる。

 ”うふ……”

 鈴虫の目の前に、濃い煙の塊の様な桜花の胸が迫ってきた。

 ”たんと召し上がれ……”

 ミルクの香りのする煙が、鈴虫の顔に注がれる。 宴の再開だった。

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