第十三話 ナイトメア

5.現実


 ピピピピピ……

 無機質な電子音が、彼を悪夢の世界から救い出した。 救いの主の叫びを、男の右手が無情にさえぎる。

 「……」

 白い天井を見上げて微かなため息を漏らし、彼は現実へ戻る。


 出勤した彼は、昨夜からの情報を確認した後、実験棟の飼育室に向かった。

 「エミ君、実験条件の変更計画は出来たか?」

 白衣姿のエミ研究員は、書き込んでいクリップボードから目を上げた。

 「はい、ですがその前に見てほしいものがあります」

 彼女は、例のラットをケージから取出すと、実験用の迷路に置いた。 小動物の学習速度を調べるために使用するあれだ。

 「このラットは、昨日この迷路を経験しています。 見ていてください」

 彼女が手を放すと、ラットは軽やかな足取りで迷路を走り……ださずに、壁によじ登った。 そして、幅の狭い迷路の壁の上を、

見事なバランスで走り抜けた、最短距離を。 そして出口に置いてあった餌を食べ始める。

 「こいつは……いつからだ?」

 「昨日、一回目の実験を追えてからです。 二回目以降は何度やっても、壁を上りました」

 男は首を振った。

 「こんな反応を示したラットは……過去にはいるのか?」

 「ラットでは皆無です。 アカゲザルで一例だけあります」

 そう言いながら、彼女は餌を食べ終えたラットに手を差し出す。 ラットが彼女の手に飛び乗ると、エミ研究員はラットをケージに

戻した。

 「随分と馴れたな。 まるでペットだ」

 「そうですね。 どう思いますか、これを」

 男は、腕組みして唸った。

 「全く……どういう事だこれは? 説明がつかん。 知能が高くなったのか? いや、それなら逃走行動に出るのでは? 飼い

ならされていたわけではないのだから。 では、餌を適量しか食べなくなったのは? 全く説明がつかない」

 ラットをケージに戻したエミ研究員が、ラットを見つめたまま口を開く。

 「この現象について、突飛ですが仮説を立ててみました」

 「仮説? どんな仮説だ。 聞かせてくれ」

 「このラットは、『利口になった』のでは?」

 男は苦笑した。

 「迷路の突破を見る限りは、知能が高くなったとも考えられるがね。 餌をあまり食べなくなったことの説明にはならないだろう。 

それに、ペットの様に従順になったことも説明できない」

 エミ研究員が顔を上げた。

 「私は『利口になった』と言ったのです」

 男は、二度瞬きをし、それからエミ研究員に視線を戻した。

 「……説明してくれ」

 「はい、このラットは餌を適量だけ接種しています。 この量の摂取を続ければ、栄養過多による病気にはならないでしょう。 

ラットは、私に従順になりました。 私がこのラットを保護し、餌を与えているからです」

 男は、手を口元に当てて、彼女の言葉を頭の中で反芻した。

 「つまり、このラットは、長生きするために食事制限をし、自分の意志で君に飼われていると? ……ここにいれば、食い物の、

住居の心配がないと知っているというのか?」

 「知っているとは限りませんが、生きていくのに、最も有利な選択をしているのです、このラットは」 

 男は、一度手を組んで押し黙り、再びエミ研究員に尋ねる。

 「『知っているとは限らない』とは?」

 「考えて行動しているのではなく、何かがラットの行動を制御しているのではないかと……」

 男は、エミをじつと見つめる。 そして口を開いた。

 「『何か』……とは?」


 エミは答えるかわりに、ゆっくりと腕を上げて、白衣の前を開いていく。

 「……」

 白衣の隙間の向こう側に、赤い服を着たエミの体か見える。 しかし、何を着ているのだろうか。 光沢のある赤い服は、彼女の

体にフィットして、艶めかしい曲線を浮き上がらせている。

 「……?」

 彼は、赤い服が透けていることに気が付いた。 しかし、赤い服の下にあるべきものが見えない。 

 「……大胆な格好だな」

 無表情だったエミの口元に、微かな笑みが浮かび、彼女は、するりと白衣を脱ぎ落した。

 「?」

 最初は、何が見えてするのか判らなかった。 赤い半透明の女体……そうとしか見えないものに、エミの首がのっている。 いや

エミの首から下が、赤い半透明の物体に置き換わっているようにも見える。

 「……」

 エミが両手を広げる。 すると、今まで普通の人間の首だったところが、体と同質の何かに置き換わった。 其処にいるのは、

エミの形をした赤い半透明の『何か』だった。


 「……君は……なんだ?」

 何故そんなことを聞いたのか、彼自身にも分らなかった。 本来なら、エミがどうなったのか、何をするつもりなのか、疑問、驚き

恐怖、そういうものが溢れだしてもよさそうなのに、何故か心は平穏だった。

 ”私は……コレと……”

 彼女の指が、手近のパソコンを指さすと、画面上に赤いアメーバが写った。 あの、エミが発見した謎の物体だ。

 ”そしてアナタ……貴方自身”

 彼女が、彼を指さした。

 「何? それはどういう意味だ、『赤いアメーバ』がお前ではないのか?」

 ”説明するわ……”

 そう言うと、彼女は手を伸ばして彼の頭に触れ、そして愛しそうに彼の頭を撫でた。 しっとりした感触が心地よく、その感触は、

昨夜の悪夢の中で彼を翻弄した乳房の塊にそっくりだった。

 ”それを貴方が望んでいるから……”

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