第十三話 ナイトメア

3.迷路


 「ラットの行動が変化した?」

 「はい、まとめると……この通りです」

 男は、エミ研究員が差し出した要約リポートに目を通す。

 「高カロリー餌を残して、植物性餌をほぼ全量摂取した?」

 「餌の摂取量とラットの消費カロリーの予想値から計算すると、理想的な摂取量なのですが……」

 「実験用ラットが肥満を気にして、食事療法を始めたとでも? 悪い冗談だ」

 「同感です」

 男は、エミ研究員が担当しているラットのケージをモニタに出した。 ラットは回し車を勢いよく回している。

 「……行動が変化したのはこのケージのラットだけか?」

 「はい」

 男は、手を顎に当てて考え込み、はっとして顔を上げた。

 「例のゾウリムシはどうなった」

 「はい……それが」

 エミ研究員がモニタを切り替え、ゾウリムシの拡大映像を出した。

 「動いていない? 静止画にしたのか?」

 「いえ、リアルタイムの映像です」

 見ていると、薄赤く染まったゾウリムシが、急に動きだして餌をあさり始めた。

 「ご覧の様に、このゾウリムシは、時々活動が停止する様になりました」

 「……寝ていたのか?」

 「そうかもしれません」

 男はエミ研究員を振り返った。 生真面目そうな顔で冗談を言っているようには見えない。

 「……しばらくそのケージのラットを、他のケージとは別のアクリル・ボックスに隔離し、経過を観察しよう。 それにエミ君、君は

隔離したラットだけ取扱いたまえ。 他のラットは別の研究員にまかせる」

 「何故です?」

 「条件を特定する。 君が扱ったラットにでけ、行動の変化が起きたように思える。 それ以外の可能性もあるから、水、空気、

餌について、過去のデータを……」


 男は鞄を床に投げだすと、ベッドひっくり返って天井を見上げた。 ラットの分析の準備で、帰宅時間が遅くなり疲れている。

 (ラットとゾウリムシ、ラット……)

 単語を頭の中で繰り返しながら、なんとなく天井の模様を追う。 幾何学模様がプリントされた板材が、出口のない迷路を描き

出している。

 (……)

 迷路の中を視線が彷徨う。 所々に、黒っぽいしみがある。 雨漏りか、一階上の部屋からの漏水だろう。

 (……1……2……3……)

 しみの数を数えてみる。 数えているうちに、新たなしみが目に止まる。 

 (……5……6……7……)

 しみが増えていく。 それに、一つ一つが広がっていくようだ。

 (……12……繋がった……)

 しみが繋がり、迷路の中を塗りつぶすよう広がっていく。 男は、広がったしみに何かの形を見出した。

 (ああ、人の形だ……)

 それが『人』の形に見えてきた、そう思うと、いっそうはっきりとした形になっていく様な気がした。

 (……頭……胴……足……)

 形がはっきりするにつれ、黒っぽかったしみが、赤みを帯びてきた。 赤っぽい人型が天井に張り付いている、そう見えた。

 (……細い……)

 手足が細い、ならば女だろう。 そう思うと、自然と視線が胸に行った。 胸の辺りが、丸く盛り上がっている。

 (……女か……女だ……)

 さっきまで平面だった天井の『女』は、いつの間にか、レリーフの様に盛り上がっていた。 その胸が、じわじわと膨れていく。

 (……?……)

 天井が遠くなった。 別に天井が動いたわけではないが、ただ天井までの距離感が、ふいに遠くなったような気がしたのだ。

 (……)

 奇妙な違和感を覚えながらも、男の視線は『女』の胸に留まっている。 膨れた乳房が、重々しく揺れ、また少し膨らむ。 

 (……?……)

 再び距離感が狂い、女までの距離が判らなくなる。 天井まで、精々2mのはずだが、女はもっとずっと遠くにいるようでもある。

 (……あっ!……)

 突然女の乳房が、熟した果実の様に落ちてきた。 それとも、乳房が一度に膨れたのだろうか。 気が付いた時には、彼は2m

ほどもある、2つの赤い乳房の下敷きになっていた。

 (これは……乳?……)

 起こっていることを、頭が理解しない。 赤いゼラチンの様に透き通った二つの大きな乳房、それが彼を抑え込んでいる。 頭を

回すと、滑らかな曲線が目の前で震えている。 その向こうに女の体があるのかも知れないが、ここからは見えない。

 (……)

 目の前のモノを舐めてみる。 ヌラリとした感触が舌に残り、微かな甘味と香りがする。 と、目の前のモノがフルフルと震え、

モッコリと盛り上がった。

 (これも……乳か?……)

 盛り上がってきたものは、乳首を備えた乳房の形をしていた。 2mほどの乳房の上に、別の小さな乳房−−と言ってもスイカ

ほどある−−が生えたのだ。 男は、その小さな乳房の隣を舐めてみる。 

 モッコリ……

 またも、乳房が生えてきた。 男は、それらをぼんやりとした視線で眺めつつ、大きな乳房と小さな乳房に舌を這わせていった。

 モコリ、モコリ、モコリ……

 赤い乳房が、後から後から生え、鈴なりになる。 気が付いた時には、乳房の塊はブドウの房のような形になっていた。 男の

体は、その身の丈ほどもあるブドウの房の下にあった。

 フニフニ、フニフニ……

 鈴なりになった『乳房』が、柔らかく動き始めた。 甘ったるい香りと、優しく柔らかい温もりが、男を包み込んでいく。

 (……あぁ……)

 不思議な感触は、彼の意識を誘っていく、甘い夢の世界に。

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