第十三話 ナイトメア

2.入り口


 翌日、男は出勤すると、サンプルの管理台帳に自宅で割ってしまったサンプルに『破棄、容器破損』と記載し、廃棄手続きを取り

残ったサンプルの分析度合を確認した。

 「主任?」

 「エミ君か。 昨日のサンプルを破損してしまった。 他のサンプルには、例の『謎のアメーバ』はいたかね」

 「……ええ。 見ますか?」

 エミ研究員が、からかうような男の口ぶりに、とげを含んだ口調で応える。

 「そう、かっかしなさんな」

 エミ研究員は無言で端末を操作し、画像を表示した。 ディスプレイの中に、典型的なゾウリムシと、赤っぽい塊が映し出される。

 「2倍速で再生します」

 ゾウリムシが、活発に動きまわる傍らで、赤っぽい塊は『のそのそ』といった感じゆっくりと動いている。 見ているうちに、ゾウリ

ムシが赤っぽい塊に接触した。 と、ゾウリムシがが赤っぽい塊の一部を吸い込んでしまった。

 「む?」

 ゾウリムシの動きが止まり、全体が薄い赤に染まる。 別のゾウリムシが、赤い塊を吸い込む。 今度は逆に動きが早くなり、

ゾウリムシ全体が赤く染まる。

 「どうでしょうか?」

 「この赤いものも動いているように見えるが……ゾウリムシに食われているな」

 「ですが、ゾウリムシは消化できていないようも見えます」

 「ゾウリムシに消化不良を起こさせる謎の生物と言うわけか? ふーむ」

 男はがりがりと頭を掻いた。

 「この後は?」

 「ゾウリムシは、赤くなったまま活動を続けています。 ただ、赤くなる前と後では、行動パターンが変化しているようですが……」

 「そうか……そのゾウリムシはしばらく経過観察してみてくれ。 それより……」

 男はそう言って、卓上のファイルを取り上げた。

 「ラットの脳に刺激を与えた場合の行動変化の追従実験はどうなっている?」

 「結果に一貫性が見られないので、電気刺激を与える位置と、投与する薬物の種類を増やして見ようかと」

 エミ研究員は、ファイルの最後に追加した実験項目リストを示した。

 「時間と金がかかるな……」

 
 「……どうせ使うなら、この方がいい」

 男は自宅のソファに身を沈め、琥珀色の液体をのどに滑らせた。 一日の仕事の垢を洗い流す、至福のひと時。

 「さて……」

 居間のTVモニタをONにし、映画ライブラリから古いモンスター映画『ブロブ』を選択する。 隕石の中から不定形の生き物が現れ

次々に人々を襲うという典型的なモンスター映画で、のちに有名になる俳優の初主演作品だ。


 映画は山場に差し掛かり、怪物『ブロブ』が映画館の映写室から溢れだすシーンが画面いっぱいに映しだされている。 子供の

ころから何度も見たそのシーンが、男にあることを考えさせた。

 (銀幕、ブラウン管そして液晶……再現方法は変わっても、俺が『見る』ものは変わらない)

 映画館の出口から、恐怖に駆られた人々が溢れだして来る。

 (再生された映像は、網膜の上に再現され、それが視神経を経由して脳に送られ、俺はこれを『映像』として認識する……)

 映画館の中に警官が駆け込み、すぐに緊張した表情で外に出て来る。

 (ならば、視神経に電極をつないで同じような刺激を与えれば……いや、脳に直接刺激を与えれば、同じように『映像』として

認識させることは出来る訳だ……技術的困難さは別としても)

 人々を追うように、映画館の出口から赤い『ブロブ』が流れ出す。 ねっとりとした赤い塊がこちらに迫ってきて……

 ドロリ……

 画面から溢れた。


 「!?」

 有り得ない光景に、男は勢いよく立ちあがり……すとんと腰を下ろした。

 「どういうことだ、これは?」

 TVモニタから溢れ出てくる赤い粘体は、フルフルと震えながら次第に量を増してくる。 驚くべき事態のはずだが、なぜか心の

水面は波ひとつない穏やかさだ。

 「TVモニタが破損したのか? しかし、この赤いものは何だ? 液晶画面の充填剤か何かか?」

 赤いものは、フルフルと震えながら盛り上がって来る。

 「これほどの量が出てくることは有り得んな……発泡性の薬品か何かで、熱で発泡しているのだろうか?」

 赤い物体は、膨れたり、縮んだりをくりかえし、丸い形を複雑に変化させている。 男は、その形の中に艶めかしさを感じ、苦笑

する。

 「我ながら……む!?」

 突然、頭に血が上り、こらえきれない程の性衝動を赤い塊に覚える。 が、あまりに急激な感情の変化に体がついていかない。 

息が苦しくなる。

 ハァー、ハァー

 ソファにひじ掛けを握りしめ、あらんかぎりの力で深呼吸する。 その彼の眼前で、赤い塊は形を変え続ける。 丸い塊がほどけ、

しなやかな曲線が床を這う。

 ううっ……くうっ……

 全身に力が入り、ソファに座ったまま男は痙攣した。 自分で自分の体が制御できない。 その彼の視線の先で、赤いしなやか

な曲線が体を起こす。

 「お……女ぁ!!」

 赤い女が、床に横座りしていた。 女は物憂げな仕草で髪をかきあげる。 その体は、半透明のジェリーのように見えた。

 「ううっ……うううっ……!?」

 男の心に、『恐怖』が巻き起こった。 女に対する恐怖なのだろうか。 後で、よく自分の心臓が止まらなかったものだと思った。 

それほどの凄まじい恐怖だった。

 「!!!!!」

 天井を見上げ、絶叫しようとして、そのまま気を失った。 彼は暗闇に落ちていく心の隅で、これで解放されると安堵していた。

 
 翌朝、彼はソファに座ったまま目覚める。 居間には、赤い女の痕跡は何も残っていない。

 「夢……か?」

 ソファから立ち上がろうとすると、全身が筋肉痛に悲鳴を上げる。 

 「どこからが……夢?」

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