第十二話 羽衣

15.集落


 朝日が山の形を夜から切り出す頃、ラフは意識を取り戻した。 湖に浸っていた半身が鉛のように重く、這いずるようにして

岸に体を引きずりあげる。

 ゴホッ、ゴホッ!!

 だるさと熱っぽさ、悪寒が集中攻撃をかけてきた。 咳をするのさえ重労働だ。 一晩中水につかっていたので、低体温症か

何かになっているようだ。

 立ち上がろうとしたが、足が滑って倒れてしまう。 体の節々が痛む。

 「び、病院に……」

 ラフは、木にすがるようにして体を起こすと、テントに戻らず駐車場に向かった。 


 「はぁっ……はぁ」

 ラフは峠の駐車場で車を止めた。 天気が良ければ、ここから集落と湖が一望できるはずだが、今日も靄が濃くて下界は

何も見えない。

 「みんな、どこに行ったんだろう……」

 彼は集落で助けを求めるつもりだった。 しかし、駐在所には誰もおらず、近くの民家を訪ねても誰も出てこなかった。 

それだけではなく、卵の腐ったような嫌な匂いを、そこかしこで感じたのだ。 危険を感じた彼は、峠まで登って様子を見る

ことにしたのだ。

 ……まったく、ばかどもが……

 背後で呟く声がし、ラフは驚いて振り返る。 集落で『ぶつぶつじい』と呼ばれていた老人が立っている。

 「あ、あの……他の皆さんは」 ラフはおずおずと尋ねた。

 「……何人かは逃げたろうが、残りはおっ死んじまったよ」

 「死!?……どう言うことです」

 「瘴気よ……『天昇女』が天に上った後、神社の辺りに瘴気がわく。 人も獣もばたばたと、くたばるだ。 だもんで『天昇女』

が昇ったら、一月は村から離れなきゅならんに……だれも耳をかさん」

 ラフは目を瞬かせた。 そんなことは、誰も言ってなかったからだ。

 「……『天昇女』がおとぎ話にされた時な、『天昇女』が天に上った後に瘴気さわくなんて話は、都合が悪いから切り取っち

まったんだろうて」

 「……」

 「……『天昇女』の話は、ここいらだけの話だし、最後に出たのはおら達が生まれる前だ。 薄気味の悪い所なんか、切って

捨てちまう。 人なんてそんなもんだろうて」

 『ぶつぶつじい』はラフに背を向けると、すたすたと歩きだす。

 「あの、どこへ……」

 しかし、『ぶつぶつじい』はラフに応えることなく峠道を上り、そのまま姿を消した。

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 「『瘴気』って、そんなものが本当にあるのか?」

 「後でわかったんですが、硫化水素だったんです」

 ラフは『天女の羽衣』、いや『羽衣クラゲ』の一部をしまいながら答えた。

 「『天昇神社』の裏手にあった洞窟には、温泉の湧水口がありました。 ここから、時々硫化水素が発生していたらしいんです」

 「硫化水素の『瘴気』……そう言えばどっかの村で、火山性の有毒ガスで集落がほとんど全滅したってニュースがあったな」

 ラフは頷いた。

 「硫化バクテリアと共生する『羽衣クラゲ』は、『瘴気』の発生と前後して活動を始め、『瘴気』の終息とともに活動を休止させる

『天昇女』はそう言っていました」

 「目を覚ました『羽衣クラゲ』と『天昇女』は、ガスや『瘴気』で動けなくなった人や獣を餌食にして繁殖する……しかし『天昇女』

は? 何故、そんなものがクラゲの中に住んでいるんだ?」

 「『天昇女』自身も、それは知らないようでしたし」

 「……」


 会話が途切れ、ロウソクの炎が揺れた。 滝はと志度は揃って視線を炎に向ける。

 「『天昇女』は、なぜ君を解放したんだ」 視線を炎に向けたまま、志度が尋ねた。

 志度は答えを期待していなかったが、ラフは意外な答えを口にした。

 「知らしめるためですよ、『天昇女』の事を」

 滝と志度が顔を上げると、そこにラフなシャツを着た若者の姿はなかった、ただ風に乗って声だけが聞こえて来る。

 ……皆が行ってしまえば、あの集落には誰も戻ってきませんよ。 そうでしょう……

 ……だから、ふふっ……

 ……こうして、嘘とも本当ともつかない話が残れば……

 ……ねぇ、誰かが行きますよあそこに……住みつきますよ、あそこに……

 ……僕たちみたいに……

 ……そうでしょう……


 ふいに闇の中に淡い光が浮かび上がり、すーっと空に上っていく。 滝と志度の視線がそれを追った。 

 「……」

 二人の視界の中を、うすい布のようなものが横切って、ロウソクの炎を消した。

<第十二話 羽衣 終>

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