第八話 変

6.二人目は


 黒川達は廊下を駆け抜け、角を曲がり、階段を駆け下り、また上る。

 「出口はどこだぁ!」 「非常口の表示が無い! 消防法違反建築物だ!」

 道に迷うと、同じ場所に何度も来るという。 しかしここでは、何処まで行っても同じ場所に出ない。

 「黒川ぁ、廊下を行っても駄目だ。 と、扉の向こうなら」

 闇垂の言葉に頷き、黒川は扉の一つを開けて中に飛び込んだ。

 「うわっ!?」

 踏鞴を踏んで止まる黒川。 その背に墨屋、闇垂がぶつかった。

 「急に止まる奴が……うおっ!?」

 そこは、不思議な場所だった。 天井も壁も無く、見上げれば星一つない漆黒の空間が広がっていた。 振り向くと、彼らが右往左往していた旅館風の

建物の壁と、明かりを漏らす一つだけの扉。

 「何だこりゃ……床はあるのに、天井も壁も無い。 裏庭なのか?」

 「清水の舞台みたいだな」

 闇垂は呟いて『清水の舞台』の端まで行ってみた。 和風の橋の欄干のような手すりから下を見る。 しかし、真っ暗で何も見えない。 闇垂は背筋が

寒くなるのを感じた。

 「下が無い……」

 闇垂の言葉に黒川達は顔を見合わせた。


 タン……

 軽い音を立て、白い着物の女性が舞台に降り立つ。 三人はぎょっとして視線をそちらに向け、慌てて建物に戻ろうとした。

 「我を……」 女が呼びかけた。

 「えっ?」 闇垂が振り向いた。

 女は優雅な仕草で帯を緩め、そして舞い始めた。

 ……汝、何を求め惑う 汝、何に怯えて去り行く 求めよ、沸き立つ思いのまま 求めよ、己が欲するまま……

 女は言葉を宙に放ちつつ、着物をその場に落としていく。 目を奪う白い裸身が、舞台の上で舞う。

 ……綺麗だ……

 「馬鹿が!」

 阿呆の様に呟く闇垂を残し、黒川達は建物の中に消えた。 後には裸で舞う女と、呆然とそれを見つめる闇垂が残った。

 タタン、タン、トン、トッ

 軽い足取りで女は舞い、闇垂は吸い寄せられるように女に近寄る。 と、その腰に巻きつく銀色の光の輪。

 「尻尾?」

 そう、女の腰からふさふさした銀の毛が生えた、太い尻尾が生えていた。 黒かった頭髪も、いつのまにか鮮やかな銀色に、そして頭の先から覗く三角の

耳。

 「狐さんだ……」

 闇垂の記憶の底、とうに忘れていたお化けの姿が女と重なる。 彼の前で舞っているのは、銀の毛を纏った女の妖孤。 差す光など無いはずの闇の舞台で

彼女は光の舞で闇垂を誘う。

 タタタタ……タン!

 唐突に、舞が終わる。 妖孤は床にうずくまり、誘うような目線を闇垂に投げかける。

 「でへっ……」

 相好を崩し、妖孤に近寄る闇垂。 しかし、衝撃が彼を弾き飛ばし、闇垂は『舞台』に転がった。

 「なんだよっ!?」

 邪魔されたことに怒り、闇垂は衝撃の正体を探した。 それは、妖孤と彼の間に降り立ち、彼に牙を向く。

 「黒狐……」

 闇の化身のような黒い狐、それが彼を威嚇していた。 その向こう側で、妖孤がくすりと笑う。 わけが判らず闇垂は戸惑った。 


 「欲しくは無いのか?」

 闇垂の背後から声がした、振り向けば『ずぶり』の女将がそこにいた。 本来なら逃げ出すべきなのだが、なぜか闇垂はその事に思い至らなかった。

 「欲しいか、だと?」

 「欲しかったのではないか? 絵本の中の『狐さん』が、銀色の妖孤が、手に入らぬと判って、泣き伏したのではなかったのか?」

 ……あ……ああっ!……

 何故忘れていたのか。 絵本の登場人物に過ぎない『狐さん』に、幼い手を伸ばし、切り取り、己の物にならぬそれに、癇癪を起した幼い記憶が蘇る。

 「ほ、欲しいとも!」

 「ならば望むがいい」

 女将はするりと胸をはだけ、美しい乳房をさらす。 白い蛇のような腕が闇垂の頭を捕らえ、胸に抱える。

 「我の乳を含み、願え。 欲するままに」

 闇垂は、女将の乳を咥え、吸った。 甘いとも、酸いともつかぬ、不思議な味わいが口の中に広がり、そして体にしみていく。

 ズクン……ズクズクズクズク……

 「う……うぉぉぉぉぉぉ……」

 地鳴りの様なうなり声を腹から搾り出しつつ、闇垂は妖孤と黒狐に向き直った。

 ……お前が……欲しい……

 人の声とは思えぬ唸り声が、闇垂の喉から迸る。

 ……では……奪ってみせて……

 銀色の妖孤がも妖しく誘い、黒狐が唸った。 応えるように闇垂が吼え、自分衣服を引き破って威嚇する。

 「獣を望みますか……理性を捨て、雌の為に争い、勝者として雌と交わることを」

 闇垂の体が茶色い毛で覆われ、腰からは太い尻尾が生えつつあった。 『毛の無い猿』だった闇垂は、狐の、いや妖孤の雄に姿を変え、黒狐に戦いを挑む

銀色の妖孤の雌をかけて。

 「……」

 『舞台』が軋み、獣が咆哮をあげる。 そんな獣達の饗宴を、『ずぶり』の女将は、ただじっと見つめていた。

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