ヌル

第四章 プロフェッサー(1)


 コッコッコッ……

 エミは暗い廊下を、滑るように歩いていた。 窓のない廊下にはごくわずかな灯りがともっているのみで、無機的白い壁、薄いブルーのリノリウム床の色が

判らないほどに暗い。

 コッ……

 一つの扉の前で立ち止まったエミは、軽くノックして扉を開ける。 なかには机と研究機材が所狭しと詰め込まれており、むっとするほど暖かい。

 「ミズ・エミ?」

 機械から顔を上げた若い男が彼女を見て声をかけた。 白衣の胸で、ボブと名前の入った顔写真付きの証明書が揺れている。

 「帰ったわ。 また一段と暗くなったわね」

 「電力の割り当てが減らされたんです。 休憩室や食堂なんて真っ暗ですよ」

 エミは肩をすくめ、

 「ニュースで見たわ。 西海岸のソーラ発電所が全滅ですって?」

 「全滅まではいってませんが……出力が70%急に落ちたそうです。 それに……」

 「判ってる。 農作物もダメージを受けたんでしょう」

 ボブは暗い顔でうなずいた。

 「ええ、今年に入ってから初めてです……去年の最後の発電所ダウンから半年近く何ともなかったから、もう終わったのかと思ったんですが……」

 「まだ続いているという訳ね。 原因不明のソーラーセル出力低下と植物の異常枯死は」

 「そのようです……ところで彼は何者です?」

 ボブは、エミに続いて入ってきた男をいぶかしげに見た。 白衣を着てはいるが、がっしりした体格をしており研究者という雰囲気ではない。

 「ひょっとして軍の?」

 「新しい助手よ、気にしないで。 それよりあの子たちは元気にしてる?」

 「ええ、見てください」

 ボブは立ち上がってドアの反対側の壁に歩み寄り、壁のスイッチを操作した。 壁の一面が上にせり上がり、ガラスの窓が現れた。

 「おい……これは」

 新人の助手が、窓の向こうの光景に驚きの表情をみせた。 窓の向こうは広い部屋になっており、そこに所狭しと円筒形の水槽が並べられていた。 一つ

の水槽は人がすっぽりと入れるほどの大きさがあり、水のような液体で満たされている。 そしてその中には水以外のモノも入っていた。

 「スライムタンズ……」

 「え? ああ、ミズ・エミがそう呼んでいましたっけ」

 ボブが壁のスイッチを操作すると、一つの水槽が明るくなる。 水の中に、緑色の人が浮かんでいるのがはっきり見えるようになった。 それはまさしく、

緑色のスライム娘たちの一人だった。 明かりのついた水槽のスライムタンズが、こちらの方を見て手を振る。

 ”ソージューキ!”

 その声は窓の上から聞こえた。 どうやら水槽の中の音を拾っているらしい。

 「元気そうでよかったわ」

 エミが呟いた。 心なしか安堵した様に見えた。 

 「ええ、元気です。 それにすごいですよ、彼女達の学習能力は」

 ボブがスイッチを操作すると、窓の一部に別の水槽が移る。 どうやらこの窓は、部分的にディスプレイにできるようだ。

 「画像、文字、音、いろいろな情報を与えているんですが、あっという間に記憶して、しかも忘れないみたいなんです」

 ディスプレイの中では、スライムタンズがディスプレイに映る文字をじっと見つめている。 過去の学習風景の記録らしかった。

 「見てください。 1か月でこの内容をすべて覚えたんですよ」

 興奮気味にボブがDISCを示した。 新人助手は薄紫色に光るそれを受け取って、裏返してみたりしている。

 「それはまだ市販されませんが、最新のUV-Discですよ」

 「それ一枚で、1TBは記録できるってやつね」

 「ええ……って彼は何を?」

 ボブが新人助手をあきれたように見ている。 彼は、その薄紫色の円盤を目に当て、中心の穴から向こうを見ていた。

 「……あの人大丈夫ですか? 本当に助手なんですか?」

 胡散臭そうに新人助手を見るボブに、エミは額を抑えながら応える。

 「彼は、その……所謂、『能力者』なのよ」

 「『能力者』……ああ、なるほど」

 ボブは納得して手を打った。

 「あれですか、突然『壁の向こうで女が着替えている』とか『この生き物は直に死ぬ』なんて叫んでいる……」

 「……まぁ、そんなところよ。 ときに、そのうちの『能力者』は? プロフェッサーの処?」

 エミが尋ねると、ボブが表情を曇らせた。

 「彼は……奥の病室です」

 それを聞いたエミの表情も曇る。

 「悪いの?」

 「もう……長くはないと」

 「そう……」

 エミはボブに何か告げると、新人助手の手を引っ張るようにして部屋を後にした。

 
 「おい。 あの部屋はなんだ? あそこで何をやっていたんだ?」

 新人助手の質問に、エミは歩きながら答える。

 「あの部屋ではスライムタンズを『教育』しているのよ」

 「『養育』?」

 「ええ。 ああやって後世に残すべき知識を、スライムタンズに教え込んでいるの。 あなたがさっき見ていた円盤、あれがこの世界の『本」よ」

 「ああ、どうもそうらしいと思ってみてみたんだが……なんにも見えなかったぞ」

 「あれはね、専用の仕掛けがないと読めないのよ」

 「そうなのか?」

 助手はまだ聞きたいことがあるようだったが、二人が目的地についてしまい、会話はそこまでになった。

 「入ります」

 エミは声をかけて扉を開いた。 中では二人の男女が声高に言い争いをしている。

 「……君たちのやっている事の報告書は見ているとも。 しかし、発電量には限りがある! これ以上電力は回せん」

 「必要な電力が得られなければ、プロジェクトが瓦解します。 これは、ゲームではないのです。 セーブして中断し、しばらく休止してから再開できるもの

ではありません!!」

 二人はエミたちが入ってきたことには気が付いたようだが、議論というか言い争いをやめるつもりはなさそうだった。 エミはしばらく耳を抑えていたが、

ため息をつくと言い争いに割って入った。

 「よろしいですか? お二人とも互いの要求を述べあい、妥協点を見いだそうとしていません。 それぞれの要求をリストアップして検討し、責任者を集めて

プロジェクトを進める手段について協議しては?」

 『そんな時間はない!』

 「言い争う時間はあるのに? 無駄に時間を費やすだけです」

 二人は不満そうだったが、時間を無駄にしている自覚はあったようで、改めて会議を開くことに同意した。 男の方は、ぶつぶつと呟きながら机上の書類を

鞄にしまい、足音を立てて部屋を出ていった。

 「それで? 報告してもらえるかしら、エミ助教授……いえ、サキュバス・エミ?」

 「わざわざその名で私を呼びますか? プロフェッサー・ホーク。 それとも『青い爪の魔女』鷹飛車教授?」

 二人の女が敵意に満ちた視線を交わし、新人助手は二人から離れて壁際で腕を組んだ。

 「なにがなんだかさっぱりわからんが、ここが危機的状況にあるのは間違いなさそうだな」

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