ヌル

間章 ドドット(1)


 ……

 ……

 ……起きて

 ……起きて、ドドット

 「……誰だ?……昨夜は遅かったんだ……」

 ……起きて、ドドット。 

 「……もう朝か?……」

 ドドットは体を起こしかけて、顔をしかめた。 体のあちこちがが痛む。 特に頭が痛い。

 「頭が痛い……呑みすぎたか?」

 「寝ぼけないで。 しゃっきとなさい」

 聞き覚えのある女の声に、ドドットの意識が一気に覚醒に向かう。 体の痛む箇所を確かめながら、半身を起こし、声の主を見定めた。

 「シスター・エミ。 お早いお付きで」

 「とぼけたことを言わないで。 それとも記憶が飛んでいるの?」

 黒いシスター服姿のエミは、腰に手を当ててドドットを見ている。 エミの質問に答えようと、ドドットは痛む頭で記憶をたどりっていたが、唐突に立ち上がると

大声でエミに問いかけた。

 「ルウくんは!? ヌル伯爵の館の人たちは!? 伯爵はどうなりました!?」

 「……なにがあったの? 私が知っているのは、あなたが館の窓から落ちてきたと言うことだけよ」

 エミは落ち着いた口調で言うと、ドドットに座るように促し、自分もその場に腰を下ろした。 エミの勧めに従って、自分も腰を下ろしたドドットは、改めて周り

を見回した。

 「ここは……どこですか?」

 ドドットとエミがいるのは、どこかの森の中のだった。 木の種類からすると、ヌル邸から湖を挟んで向こう側に広がっていた森林の様に思えた。

 「ヌル邸のそばの森林、ミトラの直轄地の一つよ」

 「そうだったんですか……と、どうして俺はここに?」

 「先にあなたが話して。 なにがあったの?」

 ドドットは、ヌル伯爵一行が都をたってからの話を語り始めた。


 「……そして、ルウくんまで……おれはまた逃げることしか」

 「逃げて正解だったはね。 あなたが遭遇したのは間違いなく『ヌル』よ。 伯爵夫人たちは『ヌル』に変えられてしまったようね。 その状況で、逃げ出せた

だけでも大したものよ」

 「『ヌル』? なんですか。それは? 聞いたことがありませんが……」

 「なかなか説明が難しいんだけれど…… 人、いえ女性をナメクジのような肌をした『ヌル』の母体、『ヌル・レディ』に変える生き物……というか……虫

みたいなものかしら……」

 「虫?……そういえば、でっかいナメクジみたいのが、ルウくんの同僚に迫って……」

 「見たの? それこそが『ヌル』なのよ」

 「あれが!? あれが伯爵夫人たちを!?」

 「そう。 『ヌル』は人間の女性を検知すると、触手を伸ばして拘束し、秘所から胎内に潜り込むの」

 「げ」

 「胎内入り込んだ『ヌル』は宿主の精神に干渉し、宿主はその瞬間から人ではなく『ヌル・レディ』になってしまうの。 一方で『ヌル』本体は徐々に女性の

体と同化して、最後は宿主を『ヌル・レディ』に変えてしまうのよ。 そして、『ヌル・レディ』が新しい『ヌル』を生み出す母体になるの」

 「……じゃあ伯爵夫人や、メイドたちは……」

 「見てはいないから断言はできないけど、『ヌル・レディ』になってしまったようね」

 「……伯爵や、護衛の仲間たちは?」

 エミは言葉を切って目を反らし、一息入れて話を続ける。

 「『ヌル・レディ』は、相手が人間の女であれば捕まえて仲間にし、男ならば虜にして……精を絞りつくすの」

 「……精気を吸い取るということですか……」

 「少し違う。 精、というか子種を大量に吐き出させるの」

 「子種を?」

 「ええ。 その後は男の体を蕩かし、白い粘液に変えて、すべて吸い尽くすのよ……毛の一筋に至るまで」

 「な、なんてことを……」

 ドドットは青ざめ、拳を握りしめた。

 「じゃあ。ルウくんたちはも……」

 「子供が相手の場合は、少し違うわ。 『ヌル・レディ』の体からは、人間を動けなくしたり、虜にする粘液を分泌するの。 その中には強力な女性化の

効力があるものがあるの」

 「女性化?」

 「そう、体が育ち切っていない男の子の場合は、まず、子種を吐き出させ、次に女の子に変え、そして『ヌル・レディ』に……」

 ドドットは顔色を変える。

 「じゃあ。ルウくんは……」

 「逃げ出すときには、虜になっていたんでしょう? 体はともかく、心はもう『ヌル』に……」

 ドドットは唇をかみしめ、しばらく地面を睨みつけていた。 はっとした顔になり、慌てた様子でエミを見る。

 「そうだ! 執事のセバスチョンさんが帰ってくる! 止めないと彼も犠牲になる!」

 「大丈夫よ。 ミトラ教会に、伯爵邸に『ヌル』が現れた疑いがあることを伝えて、セバスチョンさんにブラザーを同行させたから。 第一、セバスチョンさんに

は子供がいるから……」

 エミの言葉に、ドドットが首をかしげる

 「それが、なんですか?」

 「え?」

 「『セバスチョンさんには子供がいるから』。 それはどういう意味ですか?」

 エミは、少し考えてから口を開いた。

 「『ヌル』はね、子供を作った人間は襲わないの。 『ヌル・レディ』もね」

 ドドットは怪訝な表情になり、なにか考えているようだった。 そして、真剣な表情でエミに質問する。

 「シスター・エミ、あなたには羽と角と尻尾がある。 人ではないが、ミトラ教のシスターだ」

 エミは頷いて見せた。

 「いろいろと、ミトラ教の深いところも知っているし、魔物のことにも詳しいようだが……この『ヌル』に関しては詳しすぎないか?」

 「というと?」

 「俺は仕事柄、魔物の事はよく知っているつもりだが、それでも見た目や住処が判っていれば良い方で、それ以外の事なんかまず判らない。 魔物が何を

嫌うとか、タブーなんか聞いたためしがない。 まして『ヌル』なんて聞いたことがない魔物なのに、シスター・エミ、あなたは妙に詳しい、なぜだ?」

 エミは応えずに、ドドットの顔をじっと見ている。

 「『パイパイパー』の時もそうだった。 奴の撃退方法を最初から知っていた、違うか? そしていま、ここだ。 なぜ俺たちは教会でなく、こんな森の中に

いる?」

 エミは不思議な笑みを浮かべるて立ち上がった。

 「いろいろと説明しなければないと思ったけれど、先手を打って話を振ってくれると助かるわ。 まず、貴方がここに居るわけだけど、それはここが貴方を

助けた彼女の、彼女たちの住処だからよ」

 「俺を助けた……彼女達?」

 エミは頷くと、芝居気たっぷりの仕草で彼女の背後の巨木を示した。 と、いつ現れたのか、そこには一人の少女が佇んでいた。

 (え?誰だ……!?)

 彼女の姿を見たドドットは、ぎょっとして思わず立ち上がった。 その少女は緑色の透き通った体をしていて、幼い体を赤く、これも透明なマントで包んでいる

そしてマントの裾は長く広がり、森の奥へと消えている。

 「魔物……か?」

 「紹介するわ。 ミトラの知識の源の一つ。 『森の賢者』こと『スーチャン』アーンド……」

 エミが腕を広げ、ぐるりと周りを指示した。

 「『スライムタンズ・サウザンド』!!」

 サー……ザワザワザワザワ……

 「!!」

 ドドットは見た。 見渡す限りの周りの木々、その幹にへばりつく緑色の粘体を。 巨木のに佇む少女と同質のそれは、一つ一つが木の幹に背中を預ける

女体を形づくっている。 それが、一斉にこちらを見た。

 「彼女達こそが、『ヌル』の知識の源……あら?」

 ドドットは宙をかける勢いでその場から逃げ出した。

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