ヌル

第三章 ルウ(4)


 ドドットとルウが『ミトラ』のプレートを目にする少し前、エミ達を乗せたクルーザーが港に接岸しようとしていた。

 「こんな時刻に港に入るなんて、非常識にもほどがあります」

 「気持ちは判るよ……」

 怒り心頭の水先案内人(入港専門の船長)を船長がなだめつつ、クルーザーは港の奥に接岸した。 盛大にかがり火がたかれ

た岸壁にクルーザーの水夫たちが舫い綱を投げ、急いで船を停泊させる。

 「お先」

 シスター・エミはクルーザー後部の操舵甲板から舫い綱に飛び移り、慌てる船長を尻目に綱の上を器用に走り抜けて岸壁に

降り立った。

 「シスター!」

 エミは駆け寄ってきた港の役人たちを振り切り、近くの倉庫の間の細い路地に飛び込む。

 「ちょっと!……いない?」

 「困るなぁ、シスター!」

 役人たちはエミを追って路地の奥へと駆けていった。

 「……よっと」

 役人たちがいなくなると、倉庫の屋根からシスター・エミが飛び降りてきた。 普通の建物の三階建ての高さに相当する倉庫の

屋根からだ。

 「悪いわね、こちらの用が優先なのよ」

 シスター・エミは、黒い尼僧服を翻し、港町のミトラ教会に向かう。 彼女が囮を引き受けたヌル伯爵一行の無事を確かめるため

だ。


 「そう、何事もなく到着しましたか。 それはなによりです」

 「は、これも教会のご配慮の賜物と、主人も感謝いたしております」

 やや芝居がかった格好で、ヌル伯爵家の執事セバスチョンが挨拶した。 シスター・エミがミトラ教会に到着すると、すぐに奥に

通され、待機していたセバスチョンからヌル伯爵一行の旅程を聞くことになったのだった。

 「それで……護衛の方達は?」

 エミはやや言いにくそうに切り出した。 伯爵一行に同行させた護衛との契約は、一行が到着するところまでだった。 ただ、

報酬はミトラ教会から出すことになっていたため、支払いはエミ達の到着後になっていた。

 (到着がここまで遅れるとは思っていなかったから……怒っているわよねぇ)

 エミが役人を撒いてまでミトラ教会に急いだ最大の理由は、実はこれだった。 護衛の給金は安くないし、教会の経理は渋い。 

伯爵一行が到着してからエミ達が港に着くまでの期間、護衛たちは仕事をしていない訳なので教会はその分の給金は出さない

だろう。一方の護衛達は未払いの給金を待つために待機していたのだから、その期間の給金も請求してくるだろう。 エミは心の

中で、経理と護衛達に板挟みになること予想し、気が重くなるのを覚えつつ、セバスチョンに護衛たちの動向を尋ねた。

 「その事ですが。 護衛の方達には、引き続き当家の警護にあたって頂いております。 教会の方々が到着し、『海賊』の正体が

明らかになるまでは、安全になったとは言えないと主が申しまして」

 「は……なるほど。 そこまでは考えていませんでした。 では、全員が伯爵閣下の館の警護についていると?」

 「左様で」

 「これまでに、館に襲撃や侵入者はありましたか?」

 「幸いその様な報告はうけておりません」

 「それはなによりです」

 一番の心配事が片付いたエミはにっこりと微笑み、セバスチョンはヌル伯爵の身を案じてくれたエミに、心からの謝意を述べた。

 「『海賊』の取り調べは明日より始まります。 黒幕さえ判れば、伯爵の護衛は必要なくなります」

 「お願いいたします」

 セバスチョンは深々と頭を下げ、教会を後にした。


 「ふぅ……取り調べは港の役所のお仕事ね。 私は伯爵家に赴いて、護衛さん達をねぎらって来ようかしら」

 教会から護衛の給金を支払う必要があるが、それは経理の仕事だ。 エミの仕事はほぼ終わったと思っていいだろう。 そう考え

彼女は教会の客室のベッドに倒れこんだ。

 コンコン……

 「ん?」

 窓の方で物音がした。 エミはベッドから起き上がって窓をあける。

 ”オコンバンワ……ソージュー……”

 「い!……あ、貴方……ここで何を」

 ”キンキュー……”

 窓の外の何かと、エミはしばらく話していた。 彼女の顔が、みるみる険しくなっていく。

 ”……ドーシマショウ……”

 「館を張っているの子たちに伝えて。 館の中の無事な人たちがいたら……逃がす手伝いをする様に。 いいわね?」

 ”……リョーカイ……”

 エミが窓を閉めると、外でなにかがざわざわと動く気配があり、やがて静かになった。 が、エミはそれにかまっている暇は

なかった。

 「なんてこと……『ヌル』が……」

 呟いたエミは客室を出て、教会の責任者の居室に駆け込んだ。 夜も更けていたが、クルーザーが曳航してきた『海賊船』と

同行してきた『ウミヘビ娘』の扱いで役所から人が来て会議を開いていた。

 「シスター? どうしました」

 「ご無礼を詫びます。 ブラザー、急ぎ『鳥』の用意を求めます」

 ブラザーと役人が怪訝な顔をする。 「『鳥』の用意を求める」ということは、教会に常備している鳥を使い、彼女が都の教会と

連絡を取ろうとしているということだ。

 「どうしました、シスター? 海賊とウミヘビ娘の件で何か?」

 『海賊』と『ウミヘビ娘』についての問題は確かに重要だ。 しかし、都に緊急に報告するような性格のものではないはずだ。

 「その件では……とにかくお願いします」

 シスタ−・エミはそれ以上を語ろうとしない。 ブラザーは彼女の態度をやや不快に思いながらも、事務方の者に、朝一番に

『鳥』を飛ばせられるよう準備を命じた。

 「それまでに、文を用意してください」

 「感謝を」

 シスター・エミはブラザーに頭を下げると、事務方の机を借りて文をしたためはじめた。

 「『ヌル』が解放された。 緊急にライム・シスターズを派遣して……」

 
 一方ドドットとルウは『ミトラ』のプレートに首をかしげつつも、『ないはずの扉』を開いて先に進もうとしていた。

 「この扉……鉄ですよ」

 「鉄とは違うようだが……この向こうはなんだ?」

 扉の向こうには、ねっとりと生暖かい湯気が立ち込め、微かに水音もする。

 「お風呂……でしょうか……」

 「かもな……」

 湯気は二人を誘うように絡みついてくる。 不気味なものを感じ、思わず顔を見合わせるルウとドドット。

 「どうしたものか……」

 「他にボブとダニーがいる場所に心当たりはありません。 行きましょう」

 意を決した二人は、湯気の中へと踏み込んで行った。

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