ヌル
第三章 ルウ(2)
日没が近付くころになっても、クルーザーは郊外に錨泊したままで、前甲板上では港湾警備責任者に対して、
船長とシスターエミによる事情説明が続いていた。
「……海賊の捕縛に成功し、船ごと曳航してきた点は了解しました。 しかし、なぜ魔物まで乗せてきたのですか?
本来、あの魔物を退治する為に教会がクルーザーを出したと聞いていますが?」
詰問する警備責任者に対して、シスターエミは身振り手振りを交え、彼女たちを乗せてきた理由を説明をする。
「教会は、未知の魔物に対しては、まず会話を試み、言葉が通じるならば『魔人』、言葉が通じない場合に『魔物』
とします。 彼女たちは、人の言葉理解し、話すことができるので『魔人』と認定されます。 が、今度の場合、彼女
たちは『未知の魔物』ですらなかったのです」
エミは何やら厚い皮の様なものを取り出し、警備責任者に見せた。
「これは?」
「彼女たちと、港を管理する責任者との間で交わされた権利書……の様なものです」
「は?」
「これは海イノシシの皮で作られた紙で、さしずめ『海猪皮紙』とでも呼ぶべきものですが……ここには、あの娘
達の先祖が『港の構築に協力し、その報酬として獣肉を小舟三艘分を支払ったこと、沖の三角岩から見渡せる範囲
を縄張りとして認めること』と記載されています」
「な、縄張りですと!?」
「ええ。 まぁ縄張りと言っても、三角岩のそばに近づかなければそれでいいと言うことの様ですが……」
警備責任者は、『海猪皮紙』をひったくるように受け取ると、手近の警備兵にランプで照らさせた。 薄い灰色の
皮に、黒々とした文字が連ねてある。 字の輪郭がぼやけているのは、どうも皮に『いれずみ』で字が書かれている
せいらしい。
「むむむ……」
「サインと日付から判断して、三代ぐらい前の地主らしいですけど」
「うーむ……」
「あの子たちの言い分をまとめると、最近になって海賊が三角岩にやってきて、あの子らの猟場を荒らし始めた。
それで近くを通った別の船に『抗議』したと言っているわね」
エミと船長、それに警備責任者は、顔を突き合わせてこの『権利書』とウミヘビ娘達の『抗議』について協議した。
「では私がこの『権利書』を預かり、一度港に戻ります」
「それでは駄目。 『権利書』は苦情の陳情者が持っていくべきよ」
「しかし……」
警備責任者は、エミの肩ごしに後甲板を伺う。 すでに暗くなってよく見えないが、シューシューと大きなヘビが動く
ような音がしている。
「あの魔物……失礼、魔人の娘さんたちを港まで同道させるわけには……」
「では、港の最高責任者をここまで連れて来て」
「ええっ!?」
「あの娘たちがいけないのなら、責任者をここに連れてくるしかないでしょう」
「……」
警備責任者が渋い顔になった。 まだ話はまとまりそうもない。
一方、ヌル伯爵の館。 夜番の護衛たちが持ち場につく。
「今日はお前さんたちか、しっかりな」
「ああ……」
食事をしていたドドットが、席を立つ夜番の護衛たちに声をかけたが、元気のない声が返ってきた。
(大丈夫か? なんだか元気がない様だが……)
眉を寄せたドドットだが、もうじきここを引き払うので、楽な仕事に未練があるのだろうと思って食事を済ませた。
「と……そうだ、ルウ君に呼ばれていたな」
昼間、ルウから話があると呼ばれていたのを思い出した。 他の護衛たちと別れて、ルウ達少年従者の居室に
向かった。
「ドドットさん」
ルウは居室で何か書き物をしていた。
「よう」
ドドットは片手を上げて挨拶すると、後ろ手にドアを閉めた。 ルウ達のベッドの一つに腰かけ、ルウの方を見る。
「で? 心配事ってなんだい?」
「ええ……」
ルウは返事をしたが、しばらく指を組んだまま下を向いていた。 そして意を決したように顔を上げる。
「実は……伯爵閣下の事なんです」
「伯爵閣下の……」
ドドットは居住まいを但し、ルウの表情を見た。 少年は平静を装おうとしているが、顔に不安と怯えが交互に表れ
ている。
「ヌル伯爵……閣下になにか?」
「……最近……口数が少なくなって」
「うむ」
「……ひどくお疲れの様に見える時が……」
「うん」
「……それでセリアさんに相談してみたんですが……」
「……」
「『奥様が元気になられたから……』と言って笑うんです。 なんだか、はぐらかされたようで」
「は?……あぁそういう事か」
ポンと手を打って、ドドットは破顔した。
「ドドットさんは、意味が判ったんですか?」
「ああ、それなら心配いらないだろう」
ドドットは笑顔のまま腰を手げた。
「奥様は長いこと体が自由にならなかったんだろう? 今までやりたくてもやれなかった事がいろいろあるだろう
に……それにつき合わされているんだろうよ」
ドドットは、ルウの肩をポンと叩く。
「そのうち判るさ」
「そうなんですか? まぁドドットさんが心配ないというのなら、大丈夫なんですね……」
ドドットは片手を上げてルウに応じ、扉の取っ手に手をかけた。
「護衛の人達も同じように疲れていくみたいで、心配しちゃいました」
ドアを引きかけたドドットの手が止まる。
「……なに?」
ドドットは振り返ってルウを見た。 ルウはきょとんとした表情でドドットを見ている。
「今、なんと言った」
ドドットは自分の声が強張るのを感じた。 ルウがおびえた表情になる。
「護衛の人達も同じように疲れて……」
「……」
ドドットはドアにかけた手を離し、もう一度ベッドに腰を掛け、手を頭に当てて何か考えている。
「あの……」
「……」
「ドドットさん……」
「医者はどこにいる……」
「え?」
「医者だよ。 奥様は足が悪かったんだろう? かかりつけの医者はどこにいるんだ? 村か?」
「奥様の体はセバスチョンさんが見ていました。 それとセリアさんが」
「セバスチョンさんが? あの人は医者だったのか?」
ルウが頷いた。
「ヌル子爵家のホームドクターです。 セリアさんは、セバスチョンから直に医術を教わっていました」
「……なぜだ」
「え?」
「なぜ伯爵は、セバスチョンさんを使いに出した? ホームドクターならば、できるだけ家にいてもらうようにする
だろうに」
自問自答するドドットに、ルウが応えた。
「そう言えば……セバスチョンさん一人を使いに出したのは初めてですね」
「初めて?」
「ええ、奥様の事がありましたから。 今回は伯爵号の授与式だったのでセリアさんに全て任せていきましたけど」
「診察したか?」
「は?」
「セバスチョンさんは、帰ってから奥様の事を診察したのか? 医者ならば、自分の患者が急に元気になれば、
診察して当然だろう」
「……それは……僕には判りませんけど……」
戸惑うルウの横で、ドドットは険しい顔でしばらく何か考えていた。 やがて、ルウの方に視線を向ける。
「ルウ君、きみの同僚は病気で引きこもっているのだったね」
「はい」
「どこだ?」
ルウは首をかしげた。
「セリアさんなら知っているかと。 呼んできましょう」
立ち上がろうとしたルウをドドットが制した。
「いや、彼女に知られたくない。 推測でいいから、君が案内してくれ」
ルウは戸惑った様だったが、もともと自分がドドットに相談を持ち掛けたのだと思いだし、先頭に立って彼をメイド
達の居室へと案内していった。
【<<】【>>】