ヌル

第ニ章 伯爵(8)


 「ごちそうさま」

 「……ありがとよ」

 夕食を終えた護衛達が、食堂から出ていく。 昨日までは客待遇だったが、今夜からは館の警護を行わねばならない。 不寝

番は2人ずつで3交代、最初はドドットとティンガだった。

 「ドドットさん。お茶、如何ですか?」

 「もらおう。 ティンガは?」

 「ああ……」

 ティンガは不愛想に応えると、ネリスの差し出したお茶のカップを受け取り、一息に飲み干す。

 「それで? 不寝番はどうやるんですか」

 ティンガの問いかけに、ドドットは伝えるべきことを頭の中で簡単に整理して応える。

 「皆が寝入るまでは、玄関脇の詰所で普通にしていればいい。 寝静まった後は、一時毎に館の中を見回って、異常がない

か確認する」

 「異常があれば?」

 「大声を出して皆を起こす」

 そこまで言ってから、ドドットはティンガを伴って玄関脇の詰所に入った。

 
 昼間、ドドットとネリスが湖を回って帰ってみると、村の教会の使いがセバスチョンの知らせを持って来ていた。 船は海賊と

鉢合わせして、これを捕まえることに成功したが、その後で魔物と遭遇、以後の音信が途絶えてしまったらしい。 セバスチョンは

そこまでの船の消息を手紙にしたためて使いに持たせ、自分は予定通り港に向かったとのことだった。 海賊が捕まった事に

皆が安堵した。 しかしヌル伯爵は厳しい顔つきになり『船が港に戻って海賊が依頼者の名前を白状すれば、依頼者にとって

極めてまずい事になる。 その前に館を襲撃するかも知れない』と言い。 昼夜の警備を改めてドドット達に依頼した。 それで

ドドットは、護衛を昼前番、夕方番、不寝番の3つに分け、交代で護衛することにしたのだ。


 「交代制にするには人数が足りねぇ。 村の若い衆でも臨時で雇ってもらわないとな……」

 椅子に座ったティンガの呟きに、ドトットは考えながら応えた。

 「人数が足りないのは同意するが、素人を増やしてもなぁ。 襲撃があった時、守る対象が増えるだけかもしれんな」

 「うーん」

 二人が考え込んでいるうちにも柔らかな鈴の音が響いてきた。

 「な、なんだ?」

 「就寝の合図だろう……ほら、メイドさんたちが明かりを落としている」

 詰所の開け放した入口から、玄関ホールの明かりを落としている夜着姿のメイドが見えた。 

 「さて、こちらは朝まで見張りと見回りだ」

 「他の連中は寝ているのにな」


 館の中は静まり返り、あちこちの部屋から寝息が聞こえる。

 スースー……

 最初の晩で張り切ったせいか、今夜は伯爵夫妻やメイド達が夜の楽しみをしている気配もない。 そして、少年従者達も……

 「……ん」

 薄い闇の中で夜具がもそりと動き、夜着姿の少年が床に降りた。

 「……ボブ?」

 寝ぼけ眼のルウが、年かさの少年の名を呼んだ。

 「用足し……」

 ボブは、あくびをかみ殺しながら廊下に出て、端にある洗面場まで行き、用を足した。

 ……ピチャ……

 「?」

 ……ピチャ……

 ボブは眠そうな目で洗面場を見渡した。 メイドや従者用で、飾り気はないがけっこう広く、洗濯を行う場所も一緒になっていて、

そこには水瓶も置かれている。

 「んー」

 ボブは洗濯場まで行き、水瓶に触って水漏れがないか確認する。 水瓶に重い水をためるのは重労働で、水音がしたら水漏

れを確認するのは習慣になっていた。

 「大丈夫……あれ?」

 ……ピチャ……

 三度水音がした、下から聞こえてきたようだ。

 「地下……?」

 館には地下室があり、食糧庫や物置として使われている。 そこで水音がしているらしい。

 「お酒か何かかなぁ」

 ボブは首をかしげ、廊下に出てキッチンへと向かう。 地下室への入り口はキッチンの向かいの扉で、メイド長のセリアがカギを

管理していた。 扉の前まで来たボブは戸を引いてみた。 すると、音もなく扉が開いた。

 「開いてる……」

 カギをかけ忘れたらしい。 ボブは暗がりの中で目を凝らすようにして下をうかがった。

 ピチャ……ピチャ……

 「ここだ……」

 水音は確かに下から聞こえて来る。 ボブは足音を立てないようにして、そっと階段を下りて行った。

 「あれ?……」

 一番下まで降りたボブは首をかしげた、突き当りに四角い光の線が見える。

 「あれは扉? あんなところに部屋があったの?」

 階段の下は結構長い通路になっていて、両脇に小さい扉が3つずつ間隔をあけて並んでおり、その向こうが小さい地下室に

なっている。 しかし、突き当りは壁になっていて、何もなかったはずだ。

 「……」

 ボブは逡巡した後、忍び足で『ないはずの扉』に歩み寄った。 近くに来ると、さらに不思議な事があった。

 「この扉……他と違う……」

 ツルツルした手触りの扉はヒヤリと冷たく、軽くはじくと重い手ごたえが帰ってくる。 他の扉は木でできているが、この扉はどう

見ても木ではない。

 ピチャリ……ピチャリ……

 水音がはっきり聞こえてくる。 間違いなくこの扉の向こうだ。 少しだけ迷った後、ボブは扉を開けた。

 「!」

 扉の向こうは明るく、闇に慣れた目がくらんだ。 ボブは思わず手で目を隠す。

 「あら……ボブ?」

 「駄目じゃないこんな夜中に」

 光の中から声がする。 メイド長のセリアとネリスの声だ。

 「ご、ごめんなさい。 水音がしたので、お酒か何かがこぼれているのかと」

 「あら、そうだったの。 えらいわ、ボブは」

 「ええ、ほんと……せっかくだから一緒に入りましょう」

 ネリスがボブを誘っているらしい。 そのころになって、ようやく明かりにボブの目が慣れてきた。 目をぱちくりさせたボブは、

そこにあるものに驚き、何度も瞬きをする。

 「……お、お風呂?」

 石造りの床に子供の背丈ほどの大きな穴が開けられ、そこから湯気が湧き出していた。 霞のような湯気の中に、女の人の

影が2つ。 それがセリアとネリスなのだろう。

 「どうしてお風呂が……わわっ」

 もうと湯気が溢れだし、ボブを包み込んだ。 香料でも入っているのか、甘いにおいがする。 頭がクラクラするようないい匂いだ。

 「おいで……ボブ」

 「一緒に入りましょう……」

 二人が呼んでいる。

 「あ……うん……」

 ないはずの地下室に、豪華なお風呂。 不思議に思ってもいいはずなのに、なぜかボブは疑問を感じることもなく、夜着を

するりと脱ぎ捨てた。

 「……」

 まだ幼い男の誇りに甘い匂いの湯気が絡みつき、ピクリと震えた。

 ”おいで……”

 ボブは声に誘われるままに、湯船の中に足を踏み入れた。

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