ヌル

第ニ章 伯爵(7)


 ドドットはネリスの案内で、館を一回りすることにした。 館のある場所は周りから一段高くなっており見晴らしが良く、彼らが

やってきた街道が遠くまで見通せる。

 「景色は申し分ないな」

 「ええ、ここにはずーっと昔は、お城が建っていたらしいんですの」

 「城が?」

 「はい、地面を掘ると壁に使っていたらしい固い石がいっぱい出てくるって」

 ドドットは曖昧に頷くと、ネリスの案内で館の裏手に回る。

 「ほぅ」

 館の裏には大きな湖があった。 到着したときに湖があるのは気が付いていたが、あらたまって眺めるとこちらも中々の眺望

である。

 「さすがは伯爵様の館、というところか」

 館から湖に向かって緩い下りになっており、館の裏庭がそのまま湖の岸辺まで続いているようだ。 ドドットは丈の短い草を

踏みしめて、湖の岸辺まで歩を進めた。

 「けっこう大きいな」

 「ええ、朝起きてすぐに一回りすると、ちょうどお昼になります」

 「そうか。 湖には何かいるのか?」

 「お魚がいます。 食べられるので、お館の食事の半分ぐらいはこの湖で賄っています」

 「ほぅ、では漁で暮らしを立てている人もいるのか?」

 「いえ、子爵様……あ、伯爵様の為にお魚を捕ったり、船を管理する人はいますけど、漁師さんはいません」

 ドドットは首をひねった。 これほどの大きさの湖で食用魚が捕れるのであれば、結構な数の漁師が食べていけるはずだから

だ。

 「それは、あちらの森の事があるんだと思います」

 ネリスが指差したのは、湖の対岸に見える森だった。

 「あの森がなにか?」

 「あの森は、湖の向こう側から山裾まで広がっているんですけど、教会の直轄地で立ち入りが禁じられているんです」

 「なに?」

 教会の直轄地はあちこちにあるが、立ち入りが禁止されているような場所はほとんどない。 立ち入り禁止になっている場合は

それなりの理由があるはずだ。

 「理由はなんだ?」

 「それが、住んでいる『人』の希望だとかで」

 「住んでいる『人』の希望? なんだそれは」

 「はぁい、なんでも森の中に住んでいる『人』がいて、他の人に入ってほしくないんだそうです。 その人の……見た目がよろ

しくないとかで」

 「……ふーん?」

 ドドットはもう一度首をひねった。 教会の関係者には、病や怪我、あるいは生まれつき顔や体の一部が変形、または欠損して

いるような人がいて、人目に付かない教会の奥向きで仕事をさせてもらっている。 『森の人』もその一人かもしれない。

 「しかし……それって、森をまるまる一つ? そこまでしてもらえるのか?」

 ネリスはドドットが首をひねっているのをしばらく見ていたが、何か思いついたのかドドットの手を掴んで引っ張った。

 「ん?」

 「見に行きませんか、森」

 「へ?立ち入り禁止じゃ」

 「入らなければいいんですよ」

 笑って、ドドットの手を引っ張るネリス。 ドドットはちょっと笑うとネリスにと一緒に湖の岸辺を歩き始めた。


 日が高く上り、軽く汗をかく頃になって、ドドットとネリスは森の手前までやってきた。

 「大きい……」

 近くでみると、思っていた以上に森の木が太くて立派なものであるのが判った。 幹の周りは大人三人が手をつないでやっと

届くかどうか、そんな木がまばらな間隔で延々と続いている。 ドドットは手前の木に近寄り、手で押してみる。 重々しくしっかり

した感触が掌を押し返す。

 「立派な木だ、これは樹齢100じゃきかんぞ……」

 「ええ、ロンの村ができた頃には、もうこの森はあったそうです」

 彼の背後でネリスが呟いた。

 「そうかぁ……この辺りは『森』の方が先輩なんだな」 

 振り返ると、目の前にネリスの顔。 びっくりして後ずさったドドットは、バランスを崩してあおむけに倒れる。 そのはずみで

ネリスも、彼の上に倒れこんだ。。

 「ご、ごめん」

 ドドットは、ネリスの肩を掴んで彼の上から持ち上げようとする。 だがネリスはいやいやするように首を振ると、ドドットに顔を

近づけてきた。

 「お、おい」

 「ね……」

 軽く目を閉じたネリスがドドットに迫ってくる。 ドドットは内心で苦笑しつつ、そっとネリスを押し戻そうとした。

 ドクン……

 心臓が脈打った。 はっとしてネリスを見返す。

 「……」

 そこに『女』がいる、そして自分は『男』、そう考えた途端思考が停止した。 体がネリスを求めている。

 「うぅ……」

 「さぁ……」

 濡れた瞳が命じる、私を抱いてと。 抗うことのできない内なる衝動と外からの誘惑に、ドドットの形が砕け散ろうとした……


 ダレ……ソコニイルノハ……


 「ぬ?」

 「ねぇ……」

 再び迫る、甘い誘惑


 アレ……アノウエニイルノハ……アレハ……


 「誰だ!?」

 「ドドット?」

 ドドットが叫んだ立ち上がった。 小柄なネリスは、ドドットの首にぶら下がるという結構間抜けな格好で、いぶかしげにドドット

の視線の先をたどる。 彼は森を凝視していた。

 「何?」

 「いや何かの声を聴いたような……」

 ネリスに向き直ったドドットは、ちょっと顔を赤くする。 そして、ネリスを抱えるとそっと地面に立たせた。

 「気のせいのようだ」

 「そうですか」

 ちょっとふくれたネリスは、すぐに笑顔に戻った。

 「帰ります?」

 「そうしよう」

 二人は来た時と反対方向に向けて歩き出した。 このまま帰れば、湖を一周できるだろう。


 遠ざかって行く二人を森の中から見つめる眼があった。

 アレハ……

 アレハ……ヒヨットシテ……

 ……どくたー・くろす……

 サワサワサワ……

 森の中を一陣の風が吹き抜けた……


 その頃海では……

 『きぃたたたたぁぁぁぁぁのぉぉぉぉぉぉぉぉうみぃぃぃぃぃぃにはぁぁぁぁよぉぉぉぉぉぉ!!』

 アギャァァァ!!……

 ヤメレェェェェェ!!……

 ウミヘビ娘達対ル・トール賛歌卿歌合戦がまだ続いていた。

【<<】【>>】


【ヌル:目次】

【小説の部屋:トップ】