ヌル

第ニ章 伯爵(2)


 ヌル子爵が伯爵となる一日前、シスター・エミは魔物の討伐隊派遣を審議するための会議に出席していた。

 「以上の理由により、ヌル子爵領への航路に魔物の討伐隊を派遣することを提案します。 ご意見のある方は」

 言葉を切ったエミは、会議室に集まった黒服のファーザ達の顔ぐるりと見回す。 と、険しい顔つきのファーザーが、

エミを見据えたまま意見を述べる。

 「航路の安全は、領主の役割ではないのか? 魔物がいる場合、教会も助力はするが、先頭に立つのは領主の

役割だろう」

 数人が頷き、残りもその意見に賛成のようだ。

 「原則はその通りです。 しかし今回は魔物が棲みついたという岩礁は、ヌル子爵領とその手前のドロ男爵領の

責任分界点にあります。 双方から討伐隊の派遣をつのっても、どちらがどれだけ負担するかでもめ、討伐隊の

派遣までに時間がかかるのは過去の例でも明らかです。 その間に航路で被害が出れば、教会の信用にかかわ

ります。 教会が先頭に立って動き、後で双方の領主には費用の負担を求めるのが教会にとって最善と思います」

 エミの説明に空気が変わった。 『教会の信用』と言う言葉に、上位のファーザー達が考え込み隣同士で何やら

ささやき合っている。 一方、経理担当のファーザーや対外折衝担当のファーザーは、自分たちの仕事が増えること

に気が付き表情を険しくしている。 エミは心の中でため息をつくと、反対派を説得する理由を頭の中で組み立てて

いく……

 ……日が暮れるころになって、ようやく討伐隊の派遣が認められた。 一度決まってしまえば、教会の仕事は速い。

時間がかかればそれだけ費用も厄介ごとも増えるのは、みな熟知しているからだ。

 「シスター・エミ、話がある」

 会議室に残っていたエミは、直属の上役であるファーザーに呼ばれ、彼の部屋まで同道した。

 「今回は随分と強引だが、何か理由があるのかね」

 「神の御心と良心に従い、おのれの義務を全うするための最善を尽くしたまでです」 とエミは澄ました顔で応えた。

 「確かに魔物の被害から民を救うのは我々の責務だ。 しかし、岩礁の魔物は『歌声で人を惑わす』以上の事は

わかっておらん。 ちと、急ぎすぎではないのか?」

 「被害が出るのを待てと?」

 「そうではないが、まず物見をだして報告を分析するのが先決ではないのか? その報告書を提出すれば、今日

の提案もすんなり通ったろう」

 「そうかもしれませんが、それでは領主間の調整が、教会内部の調整に置き換わるだけの事。 『時間がかかる』

と言う問題点の解決にならないと考えました」

 「そうかね」

 ファーザーは表情を消して何か考えている様だったが、一つ頷くと討伐隊の派遣を要請する旨の手紙をしたため

だした。 それを見たエミは、ひそかに安堵のため息をついた。

 「時に討伐隊が使う船は? あてがあるのかね」

 「航路外の航行もあるでしょうから、外洋航海可能なクルーザーが必要と聞きました。 ちょうどヌル子爵が帰領

するために一隻入港しています」

 「ヌル子爵、いやその時には伯爵だな。 伯爵閣下を乗せたまま魔物退治に向かうのかね」

 「いえ、それはさすがに問題があります。 伯爵閣下は陸路で帰領していただき、討伐隊がクルーザーを使います」

 「そうか……手回しがいいね」

 「……」

 黙ってしまったエミの表情を、ファーザーは顎を撫でつけながら試すように見ている。

 「ところでだ……最近、なかなか忙しいようだが」

 「は?」

 「報告書の作成もかねて、しばらく軽い仕事に回ってもらおう」

 「あ、ありがとうございます!」

 「……と思ったのだが、今回いささか急ぎの仕事が発生した」

 「はぁ?」

 「すまんがもう一仕事頼むよ」

 「あ、あの」

 「何か?」

 「先月は……仕事が続いて夜勤も……で、指揮担当の手当も削られたんですけど……」

 「心配するな」

 「そ、そうですか」

 「今回は交通費の心配はない、何せ船だ」

 「……」

 「人々の安寧を守るのが教会の役目、がんばってくれ」

 (私の安寧は誰が守ってくれるんでしょうか)

 エミの心の声に応えてくれるものはいなかった。


 四日の後、ヌル伯爵を運ぶはずだった外洋クルーザーに、教会が差し向けた討伐隊とシスター・エミが乗り込ん

できた。

 「シスターの護衛とは嬉しい限りですなぁ」

 ひげ面の戦士長以下10名の戦士は、都の傭兵斡旋所の紹介状をエミに見せた。

 「その上船旅とは! 我々海は初めてでして」

 「え?」

 エミの表情が強張った。

 「初めて?海が?」

 「はい、ついこの間までは30人程の海専門の連中がいたんですがね、急ぎの仕事が入ったとかでまとめて雇わ

れていきまして」

 「……それはどのくらい前です……」

 「ひのふの……十日前ですか。 いやぁ、あいつらが入れば心強かったんですが……どうしましたシスター?」

 エミは甲板に突っ伏している。

 「いえ、ちょっと眩暈が」

 「船酔いですか? それはいけませんな」

 (港にもやってある船で船酔いする人がいますか!)

 腹の中で毒づいたエミだったが、ここで怒鳴り散らしてみても始まらない。 上層部は危機感が薄く、実行部隊は

スキルが足りない。 『失敗○○がデ○マー○に突入しつつある……』などと頭の中で嘆きつつきつつ、現場指揮官

としてエミはにっこりと笑ってみせる。

 「戦士長殿、今回は討伐相手は正体がはっきりしない魔物です。 その上、海賊の襲撃の恐れもあるとの追加

情報が入っています。 今からでも増員はできないでしょうか」

 「ああ、そのような事を教会の事務方の方も言っていましたな。 それで教会からも……誰だったかな……そう

応援を派遣するとか」

 「応援? 教会から?」

 エミは怪訝な顔で聞き返した。 ミトラ教会は神に祈り、その声を人々に届けて安寧と安らぎをもたらすのが目的

の組織、武装集団ではない。 教会施設の警護担当ですら教会外から人を雇うくらいで常設の実行部隊はなく、

応援と聞いても思い当たる節がない。

 「変ですね、応援なんて……」

 エミの声を遮るようにして、彼女の背後から野太い男の笑い声が響いてきた。

 「いやぁシスター・エミ! 相変わらずお美しい! がっはっはっ!」

 ギギギッと音がしそうな動きで、エミは後ろを振り返る。 つるっぱにげじげじ眉、忘れようとしても拭い去ることの

できない親父ファーザーの顔がそこにあった。

 「あ、貴方は……」

 詩を吟ずれば飛ぶ鳥が落ちて川が煮えたぎり、鎮魂歌を口づさめば死神と死人が耳をふさいで走り去る、その

歌声の猛きこと、天地に並ぶものなし…… 人呼んで教会の最終兵器。

 「ル……ル・トール賛歌卿……」

 「いやぁ、正体のしれん歌の魔物が出るという話でな、エミ君が難渋しているので助けてやって欲しいと、君の

上司に請われてな! 参上した次第だ。 ひとつよろしく頼む」

 「は、ははっ……」

 『脅威の歌声』を誇る親父の濁声を聞きながら。 エミは上司の息の根を止める方法を真剣に考えていた。

【<<】【>>】


【ヌル:目次】

【小説の部屋:トップ】