ヌル

第ニ章 伯爵(1)


 「カンバス・ヌル。 貴殿を伯爵に任じます」

 「拝領いたします」

 立ち並ぶ人たちが拍手をし、ここにヌル伯爵が誕生した。 ここは都のセンター・ホール。 『国』の公共行事に

使用される白い大理石造りの立派な手建物だ。 もっとも、『国』と言ってもこの大陸に『国家』は存在しない。 

10に満たない大領主を中心に中小の領主がまとまり、合議制によって『国』の運営を行っている。 発言権は、

領主の地位が上がるに従い増していき、それに伴って数が減る。 『伯爵』は『国』全体で100人足らずで、『伯爵』

の上の領主は15名。 領主に限って言えば、伯爵を拝命したばかりの『ヌル伯爵』はこの国で115番目の権力者と

言うことになる。


 「ふぅ、儀式というのは疲れるものだ」

 拝領を終えたヌル伯爵は、センター・ホールの正面玄関から出て、やたらに横の長い石段を降りた。 そこは石畳

の敷き詰められた広場になっていて、都で流行の華やかな衣装をまとった人々や、飾りのついた乗り物が行きかっ

ている。 ヌル伯爵は、広場の中ほどにある四阿(あずまや)風の待合所に入った。 中にいた童顔の少年従者が

顔を紅潮させて立ち上がる。

 「おめでとうございます、伯爵様」

 「ありがとう、ルウ。 しかしその呼び名、まだ自分のことじゃないみたいだ」

 「そんなことはありません旦那様。 どこから見ても立派な伯爵様です」

 ルウの背後にいた中年の男性が応える。

 「ありがとう……えーとセバスチャン」

 「旦那様、わたくしの名は『セバスチョン』でございます」

 「そ、そうだった、すまない」

 「それで、今後のご予定についてですが」

 「三日後に港から海路で二日の航海を経て帰領、館までさらに二日の予定だったね」

 「は、それが」 セバスチョンは言葉を切ると、伯爵に身を寄せ、耳元で囁くように話しを続ける。

 「『ミトラ教会』から船の利用を中止し、陸路で帰領してほしいとの指示がありまして」

 「なに?」

 伯爵はいぶかしげな表情になった。 『ミトラ教会』は、この大陸で最大の勢力を誇る宗教組織で、絶大な権力も

ある。 そこが船の利用を止めろというのであれば、よほどの理由がない限り従うしかない。

 「教会の指示とあれば仕方がないが、理由はなんだ?」

 「その理由を説明するので、教会までご足労願いたいと……」

 ヌル伯爵は難しい顔になった。 教会の権力は相当なものだが、自分も大陸では100数十番目の権力者だ。 

来いと言われ、はいそうですかと出向くべきか、説明に来てもらうべきかと頭を働かす。

 「教会から、迎えの『車』も来ております」

 「そうか、それならば出向くべきだろう。 セバスチョン、同行しなさい。 ルウは宿に戻って、他の者たちに帰り

支度をはじめさせなさい」

 「承りました」

 「はい、旦那様」


 ヌル伯爵とセバスチョンは、教会差し向けのババと言う獣が引く車、通称『バ車』で都にミトラ教会の図書館に案内

された。 二人が図書館の奥まった会議室に通されると、そこには黒髪のシスターが二人を待っていた。

 「初めまして、シスター・エミと申します」

 「私がヌル伯爵です。 こちらは使用人のセバスチョン」

 セイバスチョンは立ったまま、頭をやや下げた。 エミは二人に頭を下げ、セバスチョンの退室を求めた。 セバス

チョンは、ヌル伯爵と視線を交わし、一礼して退室した。

 「申し訳ありません」

 「いえ。 それで、船の利用を中止させた理由は?」

 「昨日の事ですが。 伯爵閣下が利用される航路で海賊の被害にあった船がありまして」

 「海賊ですか、それは大変ですな。 被害は?」

 「それが海賊は船を襲ったものの、何も取らずに船を解放しまして」

 「荷がなかったのですか?」

 「いえ、どうも海賊の狙いは荷ではなく、人だったようです」

 「人?」

 「はい。 狙いは閣下らしいのです」

 伯爵の表情が強張り、同時に彼は教会が彼を呼んだ理由を理解した。

 「黒幕は? 叔父ですか、それとも大叔母ですか」

 伯爵は彼が害された場合に領主の地位を引き継げる立場の人間のことを口にした。

 「さてそこまでは判りません。 それにこれは教会が介入できることではありません。 伯爵閣下の身はご自分で

守っていただくしか……」

 伯爵はため息をついた。

 「領主など、苦労の多い立場なのですがね」

 「ええ、わかります」 エミは頷いた。

 「判りました、とりあえず護衛を大目に雇って陸路で帰領しましょう。 海賊の方は……」

 ヌル伯爵の問いかけにエミは応えなかった。 ミトラ教会の仕事には、魔物から人々を守ると言うものがあり、

情報の収集はその為ののものだ。 しかし『海賊』は人で、海賊退治はミトラ教会の仕事ではない。

 「航路の安全を守るのは、港を所有する領主の、つまり私の役目ですね……」

 ヌル伯爵の所領にも港町はあるし、襲われたのはヌル領に向かうと思われた船だ。 どう考えても自分の仕事

だが、これは帰ってからにならざるを得ない。 ため息をついた伯爵の顔を見ながら、エミが独り言のように話を

続ける。

 「ところで、海賊が出没した辺りの岩礁に、歌声で人を惑わす魔物が棲みついたとの情報が寄せられました」

 「は?」

 「私どもは、その魔物退治のために船を出します。 出発は三日後の予定です」

 「……」

 「ちょうど伯爵閣下が使用する予定でした船が空きますので、それを利用させていただきます」

 「は、あどうぞ」

 別に伯爵の船と言うわけではないが、つい話の流れで応じてしまう伯爵だった。

 「ひょっとすると、海賊がが襲ってくるかもしれませんが、その時は我々も『自衛』いたします」

 「……」

 「捕まえた海賊は、当然航路の安全を守る責務を負っておられる伯爵閣下にお引渡ししますので、そのせつは

よろしくお願いいたします」

 「……了解しました」

 「それでは、旅のご無事をお祈りします」

 にこやかな顔でエミはヌル伯爵を送り出した。


 ヌル伯爵は控えの間にいたセバスチョンと合流して建物を出る。 バ車の中でヌル伯爵はセバスチョンに話かけた。

 「セバスチョン、船旅の準備をしなさい」

 「は、中止の指示は取り下げられましたか?」

 「ああそうだ……しかし、気が変わるかもしれない」

 「は?」

 「船は速いが、狭いし不衛生だ」

 「伯爵様ならば賓客扱いで、船長並みの待遇が受けられましょう」

 「君らはそうはいくまい。 それに、ルウは来るとき船酔いにかかったろう」

 「左様で」

 「だから船旅の準備はするが、気が変わるかもしれない……ということで準備をしなさい。 それと護衛の追加も

雇おう」

 「は……いろいろと大変でございますなぁ」

 「全くだ」

 判ったような、判らないような表情でバ車のなかの二人は、互いに悟られないようにため息をついた。

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