ヌル

第一章 伯爵夫人(5)


 チュン、チュン……

 チチチ……

 湖のほとりで早起きの鳥たちが囀って朝を告げ、一日が始まろうとしていた。

 「……」

 子爵夫人はけだるげに体を起こすと、寝台脇の呼び鈴の紐を軽く引く。 すぐに筆頭メイドのセリアがお湯を

持って現れ、子爵夫人の朝の支度を手伝う。

 「……」

 子爵夫人はセリアの世話を受けながら、そっと口をかみしめた。 彼女の腰から下が動かなくなって随分になる。 

体が動くころは世話を受けても何も感じなかったが、ベットから動けなくなってからは、世話を受けることがつらく

なった。 夫を支えるどころか、自分はただここに寝ていて支えられるだけなのだ。

 「奥様?」

 「あぁ、ごめんなさい」

 セリアが朝食をとるか尋ねていたらしい。 食欲はないが、食べねばならない。 それが今の自分にできる、数

少ない仕事なのだから。


 「奥様、お話があります」

 朝食が終わった後、片づけを済ませたセリアが子爵夫人に何事かを告げに来た。

 「ミリが奇妙なものを湖でみつけました」

 「湖で?奇妙なもの?」

 「はい。 お屋敷で見かけて事がないものなのですが、金属でできた器のようでした」

 「器ですか?」

 「いえ、印象は器か鍋のようですが、開き方がわからなかったのです」

 セリアの説明では、よくわからない。 子爵夫人がセリアにそれを見せるように言うと、セリアは扉を開けて、

廊下にいたミリを中に入れた。

 「これは……なんでしょうね」

 ミリがワゴンに乗せてきた金属の『鍋』を見て、子爵夫人は首をひねった。 『鍋』だとすると四人分の調理が

できる大きさで、表面はなめらかに仕上げられていて傷一つない。

 「お鍋にしては随分ときれいだこと……パーティ用の器……にしても開け方がわかりませんね」

 子爵夫人はミリに顔を向けた。

 「いつこれを?」

 ミリは、しなやかな動きで一礼して応える。

 「……七日前です」

 「七日……」

 子爵夫人は小首をかしげてセリアを見た。

 「ずっと放置していたのですか?」

 「はい、中身がわからなかったので、お持ちして失礼になってはと思いまして」

 「そうですか」

 「はい。 ですが……」

 セリアは言葉を切ると、そっと『鍋』に触れた。 するとと、『鍋』の淵に沿って黒い線が現れた。

 「ようやく中身が判り、ぜひ奥様にお目にかけなくてはと思いまして」

 セリアがそう言うと、『鍋』が貝のようにぱっくりと開き、中身を明らかにする。

 「!」

 子爵夫人は、たしなみとして感情を表に出さぬすべを心得ていた。 しかし、今は悲鳴を飲み込むのが精いっぱい

だった。 『鍋』の中には、グロテスクなナメクジが入っていたのだ。 幸い一匹しか入っていなかったが、その一匹で

『鍋』がいっぱいになるほどの大きさがあった。

 「セ、セリア!」

 子爵夫人が悲鳴を上げなかったのは見事だった。 しかし、メイドたちに視線を移した子爵夫人が悲鳴を上げ

なかったのは、ただ驚きのためだった。

 「奥様……」

 呟きながらミリがメイド服を脱ごうとしていた。 そして脱げ落ちていく服と彼女の肌の間に、光る糸が何本も見える。

 「……」

 絶句する子爵夫人の前でミリは下着姿になった。 その下着が、見てわかるほどにぐっしょりと濡れている。

 「ミリ、貴方……」

 子爵夫人が続きを口にする前に、ミリは下着をも脱いでいく。 白いミリの全身があらわになるにつれ、その体が

異様な滑りで覆われているのが見て取れた。 下着を脱ぎ取ったミリは、それを床に落とした。 重く濡れた布の

落ちる音で、子爵夫人が自分を取り戻す。

 「セリア!ミリはどうしたのです!」

 セリアはミリが服を脱ぐのを見ていたが、子爵夫人に声をかけられると気だるげな動作でそちらを見た。

 「奥様、ミリはそれにつかれて『ヌル』になったのです……」

 「『ヌル』?……」

 「はい、正確には『ヌル』になりかけているのです……そして……」

 セリアは、はしたなくもメイド服をたくし上げ、自分の腹部を子爵夫人に晒す。 子爵夫人は、ついたしなめようとし

て、彼女の腹、ちょうど臍の下あたりがミリ同様に滑りを帯びているのに気が付いた。

 「私も……」

 動けないはずの子爵夫人は、恐怖のあまり手の力だけでベッドの上を後ずさった。 そして、他のメイドを呼ぼうと

後ろ手で呼び鈴の紐を掴み、力いっぱい引っ張った。

 「奥様……」

 セリアが、やや気の毒そうな表情になる。

 「この館でまだなのは奥様だけです……ですが、すぐに奥様も……」

 セリアがネットリとした口様で告げ、 子爵夫人は目の前が真っ暗になるのを感じた。 その間にミリは『鍋』を

乗せたワゴンを押して彼女の足側に回り、こともあろうにナメクジを撫でて囁いた。

 「さぁ……奥様を」

 彼女の声が聞こえたかのように、ナメクジが端を持ち上げた。 そして端から黒い紐の様なものを伸ばし始めた。

 「ミ、ミリ……」

 「心配いりません奥様。 この『紐』は奥様が怪我をなさらないように、動きを鎮める為のものです。 痛みも苦痛も

ありません」

 淡々というミリは微笑さえ浮かべて、そのミリの傍らに立つセリアはうつろな表情でミリとナメクジ、子爵夫人を

見つめている。 そのナメクジは、ミリに促される様に『紐』を繰り出すと、鞭のように振り回し、ベッドの上の子爵

夫人の足に絡みつかせた。

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