マニキュア

2.中間考査前夜


「うー微積分なんて、実社会のどこで必要だってのよ…」
その晩、麻美は机に向って、明日の中間考査の対策に追われていた。
数学、現代国語、英作文…秋になったばかりであるが、脂汗が滲んできた…冷や汗かも知れない…

「えーい、やめやめ…」シャーペンを放り出し、椅子に背中を預け天井を見上げる…
「英語はともかく、数学なんて…英語…あ」 麻美は昼間の買い物を思い出す。
ハンガーに吊るしてあったブレザーのポケットを探り、赤い小ビンを取り出した。

手にとってしげしげと見つめる…化粧品の空き瓶を再利用したようなマニキュアのビンだが、裏の説明書は手書きで、後から貼りなおしてある。
問題はその字だ。
「うーん…わからない…」
アルファベッド、アラビア文字、キリル文字、ハングル、ヒエログリフ…何れでもない…
「何か…脳が理解するのを拒否しているみたい…はは、頭を使いすぎたかしら…」
照れのまじった口調でいう麻美…彼女は、この時真実を言い当てていた事に後で気がつく…

細長い蓋をクルクル回し、刷毛のついた蓋を抜く。 特に匂いは無い…
「?…」 (あれ?…溶剤の匂いがしない…)
小首をかしげ、色を確認する。 予想通りの赤。
(派手…んーやっぱり似合わないかな?…)
左手の人差し指の爪の先にちょっとつけてみる。
(そうでもないか…え?) 麻美は目を剥いた…爪先に僅かについた赤い液体…それはみるみる広がり爪を赤く染めたのだ…

「何、これは…」 呆然として呟く…
女主人の言葉が思い出される… 『…使った者の爪を、悪魔の爪に変える…』
(まさか…これが…この爪が…)
人差し指をじっと見る…爪が伸びたわけでもない…ただ赤いだけ…
麻美は、もうひとつの言葉を思い出す…
『悪魔の爪には二つの力が…一つは使用者に悪魔の力を与える…もう一つは他人を思いのままにする…』

「で…どうするのよこれ…」
間の抜けた話であるが、マニキュアの使い方は判っても、この爪をどう使えばいいのか判らない…『悪魔の爪』の話が本当だとしてだが。

しばし考え…びしっ!と数学の教科書を指差す…何も起こらない…
「はぁ…馬鹿馬鹿しい…」
麻美は、手を頭の後ろで組む…椅子をギシギシ鳴らして考える…
(塗るのには便利だけど…こんな物…うふ)
それほどがっかりした訳ではない。 もともとビンの文字が気に入って買ったわけだし、ちょっと付けただけで広がるマニキュア…これなら学校で自慢できる…
「いっけない…これ落ちるのかしら…」
麻美は、あわてて部屋から出て…すぐに戻ってきた。 母親のマニキュアの除光液を持っている。
除光液をつけてみるが…落ちない…

「うそぉ…」 困惑する麻美…
(隆がシンナー持ってたよね…それともカッターで削ろうかしら…爪が痛んじゃいそう…) 麻美は、渋面を作る。

やる気が失せた。 ベッドに横になり、天井を見上げ…手をかざして爪を見つめ…昼間の事を思い出す。
(…そういや小池…君どうしてるかな…) 
可愛い後輩…向こうが熱を上げているだけ…気弱な年下…気になる存在…でも思われて悪い気はしない…
(ルックスはそこそこだし…結構人気もあるし…でもあの気の弱さじゃ…こちらから誘わないとデートも…その先も…?)

ピク…人差し指が動いた…痙攣したような動き…
手を目の前に持ってきて、握ったり開いたりしてみる…別にどうもしない…
(何…神経痛?…やだ、年寄りじゃあるまいし…年寄り…はは、初体験できるのはいつ…?)

ピク…また人差し指が動いた…
(?…『初体験』…)
ピク…
「どういう事…」 思わず声が出る…僅かに怯えが混じっている…

(心に思った事に反応している?…えーと…『悪魔』…)
反応しない。
(『マニキュア』…)
やはり反応しない。
(『初体験』…)
ピク…
(うーん…『A』…)
ピク…
(なーに?…Hなキーワードに反応するの?…)
ピク…

段々面白くなってきた。
(『×××』…)
ピク…
(伏字でも反応する?…言葉じゃない…あたしの心のイメージ?…)
麻美は想像する…自分を慰めている姿を…
ピク…ツゥー…
「いっ?…」
今度は手までが勝手に動く…というより導かれる様に動く。
抵抗できないほどの力ではない。 誰かが手を添えて軽く動かすような動きだ…

(誰かが…ひょっとして…)
そーっと、クローゼットを開ける。 扉の内側の鏡に自分を映しながら念じる…
(『一人H』!…)
ピク…ツゥー…
(何も映らない…ふぅ…)
大きく息を吐く。 見えない悪魔か何かが動かしているのか疑ったようだ…まあ悪魔が鏡に映るという保証もないが…

(…ふーん…このままにしたらどうなるのかな…)
興味がそこに行き着く…ベッドに座りなおし…精神を集中して念じる。
(『一人H』!…)
ピク…ツゥー…クイッ…スルッ…ゴソッ
左手が、パジャマの中に潜り込み、ブラジャーに潜り込み右の乳房に触れる…
(きゃん!…あ、止まっちゃった…)
なかなか難しい…雑念を入れてはいけないらしい。
(拒否すると駄目なのかしら?…うーん『一人H』!…)

ピタッ…ツ…ツゥー…
人差し指がピンクの乳首に爪をあてがい…ゆっくりと乳房のふもとまで爪を這わせる…それだけだ…
「…これだけ…」 声に失望の色がある。
爪の跡が微かに赤く…細い線になっているのに気がついたが他に何も変化はない…

「何か凄く感じるとか…胸が大きくなるとかあってもよかったのに…ふぅ…?…」
麻美は、胸に違和感を感じた…くすぐったいだけ…
ジリ…
「う」
チリチリ…
「は?…」
ジン…
「うぅ…」
ジィーン…
「あぁ…」
それは深い快感だった…線になったところに熱く痺れるような喜びが生まれる…皮膚よりはるか下、乳房の奥に…
麻美は胸を押さえ前のめりになる…さらに動き出そうとする指を押さえる…必死で…
「はぁ…凄い…凄くいい…」
吐く息が熱い、乳房の中に生まれた喜びは徐々に弱まっていく…
「ふぅ…」
息を整える…心臓がドキドキいってる…
「まさか…本物?…」 興奮と不安が入り混じる…思わぬ物を手に入れたのかも知れない…

麻美はどうしようか考える…このまま続けて、どうなるか試したい気もするが…そこはかとない不安があった…
(ん…こんな事にしか役に立たないんじゃ大人のオモチャよね…今必要なのは…中間対策…せめて頭が良くなるとか…)
そこまで考えて、明日の準備を続けないといけない事を思い出す。
(頭が良くなる…んーと…せめて記憶力…よし…『記憶力増進』!)
四苦八苦して『記憶力増進』のイメージを作り出し、一心不乱に念じる…
ピク…スーッ…カリカリカリカリ…
人差し指が持ち上がり…額に爪が当たる…そして細かく素早く額の上を滑っていく…
麻美は『記憶力増進』のイメージを保つ…鏡を見ていれば、自分の額に赤く細い線のような引っかき痕が残っていく事に…それがあのビンの文字に似ていた事に気がついた事だろう。

少しして、指が止まる…妙に頭の中がスッキリしている…
机の前に戻り、教科書を広げ、読む…スラスラ頭に入る…理解しているのではない…丸々暗記している。
不思議と感慨も喜びも無い…麻美は、機械のように明日の試験の分野を記憶していく…


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