ミルク

29.傭兵としてのけじめ


ガフは走る。
みじめだ… 傭兵になってこのかた、仲間の死、隊の敗走…悔しい思いは何度もしてきた…
だが、今回の様に仲間の殆どを失い、仕事も何一つ片付けられなかった事はなかった。
ザッ…上から白い女が飛びかかってくる。 
ガフは相手にせずに、向きを変え、突き飛ばし、ひたすら逃げる。
立ち止まって戦えば、みじめな気分も幾分晴れるだろう。
(駄目だ。 止まれば最後はやられる。)
だから、ガフは逃げる…ひたすら逃げつづける。

くっ…はっ…別方向に逃げたアマレットもガフと同じ思いだった。
彼女の判断もガフと同じだった。
(奴らの武器はあの『ミルク』…でも…)
『女神の娘』は人よりも身軽で、あの恐るべき『ミルク』を使う。
アレを浴びせられたらおしまいだ。 しかし…
(アレは大して飛ぶようには見えなかった。 ならば逃げる相手にアレをかけるのは難しいはず。 捕まりさえしなければ…)
ザッザッザッ…
木が疎らになり、丈の長い草に変わってきた。 いつのまにか森を抜けて草原に出たらしい。
背後に追っ手の気配はない。 アマレットは走る速度を緩め、行く先を考える。
(真っ直ぐ行けば西の峰のふもと…ビスコタ伯の領地に出るには西の峰の北側の峠を越えるしかない…ガフとボブが無事なら多分…)
考えながら小走りに進む。 

森を抜けたとき、ちょうど稜線から顔を出した所だった月が、高く上って青白い光をで辺りを照らす頃になると、アマレットは足場の悪いガレ場を進んでいた。
寒い。 西の峰から吹き降ろす風は恐ろしく冷たい。
街道に戻れば待ち伏せに会うかもしれないと考え、わざと山裾の足場の悪い岩場を通る事にしたのだ。
最初はいい考えだと思ったが、追っ手が来る気配も無いのにこんな事をしていると、馬鹿らしくなってくる。
「ふぅ…」
ついに足を止め、大きな岩を風除けにして立ったまま休む。
途端に疲労が襲ってくる。 気を張っていないと眠り込んでしまいそうだ。
無理もない。 朝早くからずっと『女神の娘』達と戦い、そして逃げ続けてきたのだから。
「ここで朝を…いや駄目ね。 一休みしたら峠に向わないと」
彼女は呟いた。 その時。 カラリ…近くで音がした。
「ちっ!」アマレットは剣を抜き、音のした方に向き直った…

…月が反対側の…東の峰の稜線に掛かろうとしているのを、ガフは峠への入り口で見ていた。
しつこく追ってきた女達は、森を抜けてしばらくするといなくなった。
油断させるつもりなのかと思ったが。 気配も…あの『ミルク』の香りもしない。
とりあえず逃げ切れたようだ。
そう思った途端…ヘックシュイ!!…汗ばんだ体に冷たい夜風が身にしみた。
ガフはそのまま街道を進み峠の入り口まで来た。
ここから先は道なりにしかいけないから、アマレットやボブが無事ならば必ずここに来る。
仲間のサインも残されていないから、先に行ってはいないはずだ…
「それとも…」それ以上は口に出せない。
「それとも?…」
不意に横手から声がしてガフは飛び上がった。 いつの間にかアマレット岩場を伝ってやって来たのだ。
「アマレットか…ボブは?」
アマレットは無言で首を横に振った。
ガフは地面に腰を下ろし、アマレットに自分の脇を示した。
「じきに夜が明ける」
「そうだね…」
アマレットはガフに並ぶように腰を下ろす。
ガフはちらりと視線を送り、正面の闇を見つめた。 隣から漂ってくる汗の臭い…そして…
「!!」突然ガフが、アマレットの脇から飛び退る。
「なんだい?」アマレットがガフを見やって怪訝な顔をする。
「まさか…」ガフは身構え、険しい表情で腰に…剣に手を伸ばす。
「ガフ?」アマレットの表情も険しくなる。
ガフは剣の柄から手を放し、言った。 「顔を拭え!」
「は?」
「いいから!」そう言って、ガフは手拭を投げてよこす。
「なんだい。汚い手拭だね」ぶつぶついいながら、アマレットは汗臭い布キレで顔ををごしごしと擦った。
「これでいいかい?」
月に照らされた褐色のアマレットの顔を見てガフは安堵した。
それでも安心しきれないのかアマレットの顔を覗き込むようにする。 目が濁っていない事を…瞳が見えることを確かめた。
「あたしを疑っていたのかい」
「悪かった…例の『ミルク』の香りがな…」
「あんたが少し浴びたんじゃないかい?」
「かもしれんな…」苦いものを吐き出すように言った。
そして二人は朝を待つ。 敗北を確認する為に…

「ふむ…こちらから出向くと出会わん。うまく行かないものだ」
オルバンは呟いた。
彼はガフ達と別れた後、ザインをさらったタコの跡を辿った。
しばらくして、ミルクに濡れたザインの衣服を見つけたが、ザインどころかタコも女達もいない。
さらにタコが逃げていったと思われる後を追跡し、また街道沿いの湖に戻ってきてしまった。
ここがタコの住みからしい、ならばカルーア達も近くにいるかと考え、石を投げ込んだりしてみたがタコもカルーアも出てくる気配も無い。
(ならば待つとするか)
オルバンは草むらに横になり目を閉じた。 直ぐに寝息を立て始める。
間もなく日が落ち、月が昇る。

…月が天中を過ぎかなり傾いた頃、湖の岸辺に白い人影が幽鬼のように浮かび上がった。 カルーアだ。
彼女は湿った砂を踏みしめながら、深く眠る男にゆっくりと近づいていく。
男から20歩ほどの所で歩みを止め、静かに呼びかける。
「おるばん」
オルバンは身をおこし、大きく伸びをした。
「…待ちくたびれたぞ」「アア、悪カッタ。イロイロトアッテナ」
オルバンは立ち上がると、体についた砂を払い落とす。 そしてカルーアに向き直った。
青白い月明かりに浮かび上がる白い女体…それは蠱惑的な美しさを放ってオルバンを誘う。
が、オルバンの表情は暗い。 
「カルーア、先に言っておく。 すまなかった」
「…」
「お前が出て行った前の晩…酔って酷い事を口にしたらしい…んだが覚えて無くてな…」
「…オマエ、酒癖ガ悪クテ騎士ヲ除名ニナッタトイウノニナ…」
カルーアが苦笑し、オルバンが頭を掻く。
「全くだ。 まあこれで心置きなく…」
僅か一呼吸。 オルバンはカルーアとの距離を詰め、剣を抜き放ち右手から首筋に切りつけた。
カルーアは後ろに跳び下がるがオルバンの一撃は交わせない…と見えた。 しかし。
ビュッ…「ふっ!」
カルーアの両胸から白い迸りがオルバンを襲った。 オルバンは剣の軌跡を変えこれをなぎ払い、再び間合いを取る。
二人は10歩程の距離でにらみ合った。
オルバンはカルーアの左胸を凝視する。
(今の…確かに剣先は乳房を薙いだ。 しかし傷もつかない…それどころか剣を持っていかれそうな手ごたえだった。)
オルバンの顔が険しくなる。
(あの乳房には剣が通らん、そしてあの乳…頭や首に切り付ければ、アレがこちらの顔を狙う…)
じりじりと位置を変える二人。
(心の臓も駄目…苦しめないようにと思ったが…)
チャプ…カルーアの足が波に濡れ、カルーアが一瞬足元を見た。

オルバンは剣の腹を目の前にかざし、月明かりを映した。
剣に映る月光がカルーアの目をくらます。 
次の瞬間、オルバンの剣がカルーアの顔めがけて飛んできた。
カルーアは首を捻ってこれを避けた。 視線を戻した時、オルバンはいなかった。
ズン!!
オルバンを探す間もなく、腹に熱い衝撃が走った。 
そして、カルーアの上体がゆっくり後ろに倒れていく…腰から下を残して。
オルバンは剣を囮にし、カルーアの懐に飛び込んでショートソードで一気に腹を薙いだのだった。
カルーアを上下に真っ二つにしたのは、元騎士のオルバンの腕の冴えであった。 だが…
ゴ…ボッ…「ぶぅ!!」
カルーアの上体は湖に落ちながら、その切り口から熱い液体…真っ白な『ミルク』を噴出した。
今度は避ける事もできず、オルバンは頭からそれを浴びた。
ドホン! バシャ!
重々しい音を立てて、カルーアの上半身と下半身が湖に沈み、水面を白く染めていく。

オルバンは全身に甘い痺れが走るのを感じた。 もう逃げるのは無理だ。
他の女達が…タコが現れれば…今度は自分が餌食となるのは間違いない。
「ちっ…まぁどのみち、お前一人で逝かせるつもりはなかったがな」
オルバンはそう言って、手にしたショートソードの切っ先を胸に当てた。
「『裁きの間』か『戦士の庭』かどこかで会えるだろうよ…」
死後の国の名前を口にして、オルバンは刃を己の胸につき立てた。
熱い感触が胸を貫く。 そして激痛…オルバンもゆっくりと湖に倒れこむ。
(ふ…)
そしてオルバンの意識は暗黒に落ちていった…

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