ミルク

6.男の背中


チュンチュン、チチチチ…宿屋の近くの木々で小鳥が朝を告げる。
ゴトゴトゴト…荷馬車に取れたばかりの野菜や魚を積み、近在の村の農夫が宿屋にやって来た。
「ふぁ…今日もいい天気になりそうだて」
農夫は荷馬車を宿屋の裏手に止め、馬を繋ぐと裏口から中に入った。
「おーい、ゴンザレス…まだ寝とんのか?…おーい…お?…えれぇ匂いだなやぁ?…ミルク壷でも割ったんかい?」
仮に宿の中に漂っていたのが血臭だったなら…彼は直ぐに人を呼んだであろう。
だが漂っていたのはミルクの臭い。
農夫は首をかしげつつ、宿屋の親父を捜し、ほどなく宿の中に誰もいない事に気がついた。
しかし、どうすればいいのか判断がつかない。
結局彼が村に帰って人を呼んだのは日が高く昇っての事だった。

ざわざわざわ…
作付けが終わったばかりで畑仕事には少し暇が出来時期であった為、物見高い連中が宿屋の周りに集まってきていた。
「やれやれ、ご苦労なことじゃ」
「あれ、村長さんにファーザーさん」
村人の一人が新たな来訪者に気がついた。一人は村長、もう一人は村のマトラ教会の神父だった。
二人は、宿の周りにいる村人と挨拶を交わした後、宿屋に入った

二人が一階の酒場に入ると、何人かが宿帳をめくっている。
「男と女の二人連れで部屋は…こいつらはどうだ?」「こいつらも服と荷物だけだぁ」
「商人…あの悪党かぃ」「こいつはどうでもええゃろ」「あほぅ、そんな事言えるか」
どうやら、泊まっていた人間を確認していたようだ。
「皆の衆、ご苦労じゃのう」「おお村長」「ファーザーも来なすったか」

再び挨拶が交わされた後、村長を中心にして人の輪が出来た。
「ふーむ…泊まっていた連中とゴンザの親父がいなくなったと…」「んだ」村長と神父以外の全員が頷く。
端にいた若い者がボソリと呟く。 昨晩カルーアに宿代を払わされた男だ。
「あんのくされアマが悪さしたに決まってる」
「あん?何だって」村長がその呟きを耳にした。
「夕べおりゃここで飲んでたんだ。 んだったら、乳なしのババァが俺にいちゃもんつけやがって!」
「?…」
村長は話を聞いたが、若い者が自分に都合の良いよう脚色して話すので要領を得ない。
「…ふむ胸に傷のある女傭兵がここで飲んでいたと…そいつが何かしたと…そう言うんじゃな…」
やっとの事で村長は内容を把握する。 これが正鵠を射ていたとは当の本人も知らなかった。

「だども、どこにも人殺しのあった様子はねぇだぞ」「そうそうやたらミルク臭かっただけで」
「ミルク?」村長が聞き返した。
「ああ、どの部屋もミルク臭くて」「んにゃ、ミルク臭かったのは泊り客のあった部屋だけだど。 寝台と服がミルクでびしょびしょで」
「そういう大事なことは先に言わんか!」村長が怒る。
「大事か?」怒鳴られた村人が憮然として答える。
言われて村長が考え込む。
「…うーむ…しかしミルク…はて?」
「村長。そんなに考え込むような事じゃねえべ」
「む…貴様にはわかるというのか」
「おお。ゴンザはケチだったろうが」
「?」
「きっと酔い覚ましに古いミルクでも出したんだぁ。んで、みんなして腹をこわして寝台で戻したと」
「おお、なるほど」「だども何でいなくなったんだ?」「…」
結局ここで何が起こったのか、誰も説明出来る者はいなかった。

「仕方ない…皆の衆は取り合えず引き上げてくれ。 それで、水門番以外の者に声を掛けて、明日ここに集まるように言ってくれ」
「それで、どうするのです?」と神父が聞く。
「まずはいなくなった者を捜さねばな。 それには人手がいるわい」
村長はため息を吐く。
「王国の衛士隊が動いてくれば助かるのじゃが」
「宿中がミルクまみれ…酔っ払いのいたずらぐらいにしか思えませんね」
神父も疲れた様に頷く。
「ファーザー。すまんが上級の教会に問い合わせをお願いしたいのじゃが。こういう事件が昔なかったかどうか」
「承知しました」
「そしてこれが只事で無いのなら…」
「もちろん、上級教会から王国に働きかけてもらいます。 しかし、時間がかかると思いますが」
「…うむ…これ、ドグちょいと待て」「へ…なんです?」
村長は帰ろうとしていた例の若者の呼び止めた。
「酒をかっくらっておるのなら暇じゃろう。ちょいと用を頼まれてくれ」「げ…」
どうやら藪蛇になったようだ。
「ちょいと町まで行ってな、傭兵の紹介所に行ってきてくれ」
「町までって…村長、歩きじゃ往復三日は…」
「村長、傭兵を雇うつもりですか?」これは神父。
「いやそうではない。昨晩泊まっていた中で始めての客は、その女傭兵と連れの男だけじゃ」
「怪しいと?」
「戦も魔物の噂も聞かんのに何で傭兵がうろついておったのか気になってな」
「なるほど…そう言えばそうですね」
そして、村長と神父も宿屋を後にした。

同じ頃…宿屋から離れた森の奥…
コーン…コーン…倒れるぞー…メキメキメキ…ズーン…
「よぅし、これで陽の通りがよくなったと… しっかしこの木は成長は早いのに使い道が薪ぐらいしかねぇなぁ」
斧を担いだ男が切り倒した木を検分している。
と、彼は頭を上げて辺りを見回す。
クスン…クスン…微かな声がする。
(…泣き声?…)
少し考え、樵は斧を放り出すと声のするほうに走り出した。
深い下生えをものともせず、かなりの勢いで走る。
(こっちには沼があったはず!)
ガサガサと草を掻き分けて、樵は沼のほとりに出た。
辺りを見回す。 いた、沼のふちに泥の塊のような物が動いている。
「おい大丈夫か」
「フェ…ヒック…どろダラケェ」
「ああ、女の子か。 おめぇこんなとこで何を…おい、裸じゃねぇか。 服ぅ、どした」
「ナクシチャッタ…どろデ気持チ悪イヨォ…」
樵は複雑な表情になる。
何で女の子が一人でいるのかという困惑、無事でよかったという安堵、その他いろいろといったところか。
「やれやれ。 ほれ、俺の背中に負ぶされや」
そう言って樵はしゃがみ、女の子に背を向ける。
女の子が背後からおずおずと負ぶさると、すっくと立ち上がり藪をかき分けて歩き出した。
「向こうに泉がある。そこで体を洗え」「ウン…オジチャンアリガトウ」

ザクザク…樵の足取りはしっかりしていてリズミカルな音を立てる。
ズ…ズザ…ズルズル…そこに、不協和音が混じった。 何かが這いずるような音だ。
(何だ?)樵は振り返る。 音がやんだ。
背後には何もいない。 もっとも、下生えの中に何かいてもわからないが。
「ドウシタノ?」「おぅ、変な音が後をつけてくるような気がしてな…こうズルズルと…」
「ヤダ、へびぃ?」「蛇が人間をつけるかぁ?」
首を捻る二人。
樵はこの辺に詳しいので大したものはいるはずが無いと思い、踵を返し再び泉に向かう。
ズッ…「アン…」
背後で妙な音がした…と思ったら女の子が声を上げた。
「…み、妙な声を上げるな!」「ゴメン…ナサイ…」
女の子が不意に上げた声は意外なほどに色っぽく、耳元で囁かれた為不覚にも股間が少し反応したのだった。
内心の動揺を抑えようとして声が大きくなってしまったのだ。 

(全く最近の子供は…ガキだと思っても成長が早いし…)
ザクザクザク…ズン…
(…はて…少し重くなったような…まさかな…)
ザクザクザク…ズン…
(…そうか、手がずれたっと……)
「よっと」掛け声とともに、樵は体を揺すって女の子をずりあげる。
ムニュルン…「アア…ン」
「…???…」
樵は焦った。 彼は毛皮の上着を着ていたのだが、それを通して柔らかい感触が…
しばし、立ちすくみ…そして歩き出す。
サクサク…ポヨポヨ…
サクサク…ボヨボヨ…
サクサク…ボヨンボヨン…
(…なんだか…段々背中で弾んできたような…)

樵はひたすら泉を目指す…背中が気になる…でも…
サクサクサクサク…フニュフニュフニュフニュ…「アン…アフン…」
一歩ごとに背中の感触が良くなり…とうとう女の子が声まで上げだした。
(…さっきより女っぽくなったような…気のせいだ…気のせいだ…)
樵は機械的に足を動かす。 
全ての注意が背中の感触に引き付けられる。 
(上着を…いや…肌着も脱ぎたい…そして、直に…俺は何を…)
サク…ブルン…サク…ボヨン…
サ…唐突に藪が切れた。 いつの間にか泉に着いていた。

樵はほっとしたような、残念なような妙な気持ちにった。
くるりと泉に背を向け、腰を落として女の子をおろす。
「ほれ、着いたぞ。体、洗え」「ウン」
すぐに背中が軽くなり、ジャバジャバと水音がする。
樵ははそのまま泉のほとりに腰を下ろした。
多少背中が寂しくなったなのを感じつつ、樵は上着の毛皮を脱ぎ、後ろ手で女の子に差し出す。
「これ、着ろ」ぶっきらぼうに言う。
スッ…クイッ…(!?)
女の子は上着でなく樵の手をとり軽く引いた。
「おい?」
「オジチャン…アタシヲ…ミテ…」女の子の声が耳に絡みつく。
「…子供がばかな事を…!?」
不意に女の子が力を込めて樵の手を引いた。
樵はバランスを崩し、振り向きつつ女の子の方に頭から突っ込む。
フニャ…(!?)
彼は白く柔らかい何かが顔を受け止めた。
とても心地よい感触のそれは…甘いミルクの香りがした。

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