ミルク

2.最後の希望


しばらく酒場で飲んだ後、カルーアと小男は部屋に入った。
小さな宿屋だと思ったが、それぞれ一部屋ずつ割り当てられたのは驚いた。
(もっとも、流行っている宿屋の方が馬小屋に泊められたりするがね…)

カルーアの知るところではないが、先程の商人の連れになるらしいと店の親父が知って気を利かせたのだ。
無論、親切心ではなく宿の評判を高めようという下心からだが。

カルーアは、手桶に手ぬぐいを浸し体を拭う。
埃にまみれた肌に、冷たい水の感触が心地よい。
ふぅ…
ため息を漏らして、ベッドに腰掛ける。 自分の荷物…大きめのザックが目に入った。
彼女はザックに手をいれ、細めの壷を取り出す。
タプン…中で液体が波打つのがわかる。
栓を抜き、香りを嗅ぐ。 微かに甘く、懐かしい感じの匂い。
「やっぱりミルクだねぇ…」
声に落胆の響きが混じった。
ベッドに体を預ける。 部屋の明かりは窓から差し込む月光のみ。 天井の辺りは暗くてわからない。
そこを見つめながら、カルーアはジョウとの出会いに想いをはせた…

…それは数週間前の事だった。
カルーアは街道を王都に向かって旅をしていた。
女の一人旅というのは…たいがい物騒なもので、カルーアも何かにつけて『男』という名のトラブルにあった。
ただ、彼女は『傭兵』を生業としていた為、最後はに不幸になるのは『男』の方だったが。
そんな旅の途中で彼女はあの小男…ジョウに会った。
−−ジョウ…確かジョウだったよね−−
−−?…カルーアの姐さん?−−
−−あれまあ! 懐かしい! あんたが村を出て行って以来だから…−−
思わぬ再会に喜んだ二人は、今日と同じように宿屋の酒場で飲み始めた。
最初のうちこそ話が弾んでいたのだが…
ジョウは村を出た後、鍛冶屋…それも高い技術を持った鍵職人として身を立て、このままいけば自分の工房を持って弟子を取れる身分になれたはずだった。
たが事故で片目を失い、残った目も視力を失いつつあった。
そして、彼が働いていた工房は無常にも彼を追い出したというのだ。
カルーアはその話を聞いて憤慨したが、同時に成すすべが無いことも悟った。
人が余裕を持って生きられる世の中ならば、盲目となっても何とか生きていく術があるかもしれない。
だが、五体満足な人間が朝から晩まで働いてやっと生きていける世界では…
二人の間に沈黙が落ちる。
とその時、背後で旅人の親子の話が耳に入った。
父親が子供に話をしていた。 ナイン・テールの集落に伝わる昔話を。
−−おとうさん…それはおとぎ話なんだよね−−
−−いいや、マジステール峰のふもとには氷に閉ざされた洞窟があって、いまでも女神様の泣き声が聞こえてくるんだよ。−−
−−うそだー−−
カルーアはなんとなく背中でその話を聞いていた。
−−ナインテ−ルの白い女神…か−−
−−姐さん?−−
−−ジョウ…行ってみるか?−−
−−はぁ?−−
カルーアの言い分はこうである、言い伝えでは女神の庇護によって子供達は元気になり、病気もしなくなった。
つまり女神には癒しの力があった事になる…
あまりに飛躍した話に最初は呆れていたジョウだが、聞いているうちに希望が涌いてきたようだ。
身を乗り出して、カルーアの提案を検討する。
−−駄目でもともと。 当たれば…−−
カルーアの言葉に頷き、そして首を傾げる。
−−姐さんどうしてそこまで親身になってくれるんです。−−
−−あたしもちょっとね…−−
カルーアはそれ以上は語らなかった。
後にジョウは、カルーアが胸の傷の為につらい目にあってきた事を知ることになる…

フワッ…
微かに甘いミルクの香りが部屋に漂う。
カルーアは体を起こした。 いつの間にか寝入っていたようだ
部屋が暗い。 月に雲が掛かっているのか、月明かりが途絶えている。
手探りでミルクの壷を捕まえ、表面の凹凸を指でなぞる。
さして高価なものとも思えない。
「ふ…」
カルーアはこの『ミルク』の手に入れた経緯を振り返る…

…ジョウとカルーアは再会した後マジステール峰…女神が追われた言う洞窟に向かった。
別に禁断の地とか、砂漠の向こうの忘れられた都という訳ではない。
人が住んでいるところから半日も歩けばたどり着くような場所である。
だが、好んで近づく者はいない。
二人は洞窟まで来てようやくその理由を悟った。
洞窟から強風が、それも信じられないほど冷たい風が吹き出していたのだ。
そして女神の鳴き声の正体は、洞窟から噴出す風であった。
ボロロロロロ…
不気味な音を立てる風は、洞窟の入り口から絶え間なく吹き出してくる…つまりどこかに風の入り口があるはずなのだ。 しかし、人の近づけるところにあるとは限らない。
−−ここから入るしかないねぇ−−
カルーアとジョウは歯を食いしばって耐え、中に進んだ。
寒い。 洞窟の壁一面が氷で覆われている。
凍りつきそうな風が洞窟への侵入を拒んでいるかのようだ。
−−あああ姐さん…ガチガチガチ…−−
−−くっ…想像以上だねぇ…−−
しかしこういう事は、困難であるほど先に凄い物が見つかるような気になるものだ。
二人は、カンテラに火を灯し、風に逆らって洞窟を進む。
そして…あっけなく洞窟の奥にたどりりついた。
洞窟の奥は意外なほど広く、天井が高い空間になっていた。 寒さは相変わらずだが、風はここでは弱い。
二人は辺りを伺う…何かのいる気配は無い…
−−誰か!…誰かいないのかい!…−−
誰何の声に応える者はいない。
−−姐さん…−−
失望を隠せない様子のジョウに、カルーアは感情を押し殺した声で言う。
−−辺りを捜してみよう−−
真っ暗な洞窟の中は見通しが効かない。 足元も見えないので、カンテラを下げて床を照らしてうろつく事になる。
と、カルーアは氷で覆われた床に妙な物を見つけた。 厚い氷を通してなのでよくわからないが…
(人…?)
カンテラを近づけ、床を覆う氷を手袋をした手で拭ってみる。
−−服…だけ?−−
氷の下に、床に横たわった人の形そのままに服が置かれていた。 大きさから見ると子供の服のようだ。
カルーアはジョウを呼び二人で辺りを調べた。 すると同じような子供の服が数枚、氷の下にあるのがわかった。
−−あ、姐さん…−−
−−いったい…これは…? あれは?−−
少し離れた場所に光る物が見えた。
カルーアはそこに近寄ってみた。
−−ホ−リ−シンボル?−−
他と同じように氷の下に服がある。 但しここのは大人の服で、胸の辺りにミトラ教のホ−リ−シンボルをらしき首飾りが置かれていた。
かなり大きな宝石がついている。
カルーアは無言でショートソードを取り出し、それを掘り出す。
−−姐さん?−−
ジョウはとがめるような声を出したが、彼はそれ以上止めようとはしない。
そのまま、カルーアから視線を外し、何気なく辺りを見回す。
−−姐さん? そこにもなにかありみたいですぜ−−
カルーアは顔を上げ、ジョウの示した方を見た。
下に気を取られていて気がつかなかったが、すぐ近くが岩壁になっている。
カルーアは、そこには人の手による加工が施されている事に気がついた。
−−祭壇…か?…ここは神殿だったのか?−−
カルーアは、ホ−リ−シンボルをザックにしまうと壁に近寄る。
祭壇はほとんど空で、割れた壷や土器の破片が散らばっている。 無事な壷もあるようだ。
カルーアは壷を持ち上げてみた。
タプン…水音がする。
−−水が溜まってる…凍っていない?−−
カルーアは壷をカンテラで照らす…よく見えないが白い液体が入っているようだ。
匂いを嗅いで見る。 この匂いは…
−−姐さん?−−
−−ミルク?…ミルク…く…く…くくく…はははは…−−
凍りついた洞窟の中…カルーアの笑い声がむなしく響き渡った…

カルーアはベッドの上で瞑目する。
「宝石1個とミルク一壷…ふ…ふふ…」
自嘲の笑みが漏れる。
洞窟を出て三日、意気消沈した二人はもと来た道を引き返して来た。 今度こそジョウの故郷に行くつもりだった。
「結局、他には何も…ジョウ…すまなかったねぇ…あたしのわがままにつきあわせて…ふ…おとぎ話なんかに…」
そこまで呟いて、カルーアはベッドの上に座りなおして考え込む。
「…子供の服に大人の服…人数はあっている…」
(もし…全部作り話だったとしたら…あの服は?)
(例えば…そう女神でなく巫女とかが良く効く薬を作っていて子供の命を助けていたとか…)
(それを村人が横取りしようとして…そんな話が形を変えて伝わったとすれば…)
(…あのミルク…あれから三日も立つのに香りが変わらない…ひょっとして…)
カルーアはそれなりに筋道立てて考えたつもりだった。 
しかし、これは推論ですらない。 願望に基づいたこじつけである。 しかし彼女はそれに気がつかない。 それとも、わかっていて自分を納得させようと言うのか。
カルーアはミルクの壷の香りをもう一度嗅ぐ…食欲をそそる匂い…それはこれが毒でない証拠に思えた。

カルーアは…ミルクの壷に口を付け、半分ほどを飲み干した…
壷に栓をし、ベッドに横たわる。
闇の中…カルーアは目を閉じた。
(いい夢が…見られますように…)
少女のようにカルーアは祈った。

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