ミルク

1.村の酒場


−−ナイン・テール盆地に伝わる言い伝え−−

昔、昔、この辺りで長い間雨が降らなかった事がありました。
大勢の人たちが飢え、母親はわが子に与える乳すら出ない有様でした。

成す術のなくなった人々は、天に祈りました。
−日輪の神に助けを求めると…お日様はいっそう照り付けました−
−月読の神に助けを求めると…お月様そっと目を閉じました−
−最後に、星天の神々に助けを求めました…

三日三晩祈りを捧げると、三日目の深夜、マジステール峰に星神が一人降りて来られました。
降りてきたのは白い…暖かなミルク色の女神様…
神様は、己が乳を痩せこけた子供達に、死に掛けた赤ん坊達に惜しみなく分け与えてくれました。
子供達も赤ん坊も、皆は元気になり…怪我も、病気もしなくなりました。
皆女神様に感謝し、子供達は女神様になつきました。

ですが、幸せは長くは続きませんでした。
子供達が、女神様が自分達の母親だと言い出し、親を捨てたのです。
子を取られた親達は嘆き、怒り、女神様と子供達を石を持って追い散らしました。
女神様と子供達は、マジステール峰の洞窟に追われ、二度と姿を現すことはありませんでした。

人々は女神様を打った事で夜の神様達から見放されました。
以来、人の肌は褐色に染まったのだと言うことです。
それは、昔々のお話…

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マジステール峰の稜線が茜色に染まり、やがて夜空に溶け込んでいく。
この大地に住まう人々の作り出せる明かりは、闇を打ち払うには力不足で、かつ、高価であった。
地の恵みを求めることを生業とするもの達は、闇が辺りを覆う直前に住処に引き上げてしまうのが常であった。

それでも王都ならば、盛大に明かりを灯して享楽を求めることも出来たが、辺境の地ではそれは悪徳であり戒められるべき事であった。
とはいえ、「悪い事」というは魅力的でもあり、今日も一部の不心得者が村のはずれにある酒場を兼ねた旅籠に集まり、一時の歓楽に時を忘れていた。

「…魔人と和解? 世も末だぜ どこの国だ、天罰がおちるぜ」
「はぁ。 南の果てで…確かそこのお山と同じ名前の公国でしたなぁ」
酒場の奥では、村の若者と旅装の中年男が噂話をしていた。
「まぁ、魔人ちゅうても…はぁ『月光蝶』ちゅう若けぇおなごに羽が生えてましてな…その羽が美しいのなんのって」
「けっ。 『美しいナントカはアレの後で吹っかけてくる』って諺を知らねえのか」
「へっへっ…そりゃ王都の路地裏なら…」
そういうと、若者はむっとした表情になる。
「ふん…世の中間違ってるぜ。 お前らみたい禄でもない物売りが王都に出入りできて、俺達みたいな真面目な農民は一生畑に縛り付けられるってんだから」
そう吐き捨て、安酒をあおる。

ギ…ギィィィィィ…
酒場の扉が、軋み音で新たな来訪者を継げる。
酒場にいた10人足らずの男達は一斉に扉に目を向け…訝しげな表情になる。
入ってきたのは二人。
一人は女…30近いだろう。 険しい表情は、いままでの人生のが楽ではなかった事を示しているかのようだ。
続いて男…こちらも同い年ぐらいか。 身をかがめているので小男に見える。
キョロキョロと男の片方の目が落ち着き無く辺りを見渡し、もう片方の目には眼帯が掛かっている。
旅装らは違いないが、ひどくくたびれた様子でよほど遠くからきたらしい。
「…けっ、×××に×××か…」
先程の若者が聞こえよがしに何か言う。 あまり褒められない言葉を口にしたようだ。 他の客達も同じ思いの様だ。
女はそちらをジロリと一瞥する。
若者も睨み返すが、互いにそれ以上はしない。

女が酒場の奥に声をかけ、一夜の宿を請う。
「無愛想」を人の形にしたような親父が出てきて、二人をジロジロと見つめる。
鼻を鳴らし、宿代を割増しにして宿泊の是非を問い返したが、女はあっさり頷いた
親父は舌打ちをして、宿代を受け取るともっと吹っかければ良かったなどとぶつぶついいながら奥に引っ込む。
二人は開いたテーブルに向かい合わせに座り酒肴を頼んだ。

「…姐さん…結局只の…」「…言うな…どうせ駄目もと…」
ヒソヒソ話をする二人の様子は酷く落ち込んでいる様に見えた。
最初はうさんくさげに見ていた若者は、相手が女と言うことでいろいろよからぬ事を考え出した。
(王都には商売女がいるって話だが…へへ、こういう奴が身を売るはめに…)
当人は気がついていないが下卑た笑いを浮かべ、何を考えているか一目瞭然であった。
(どう相手をしてくれるんだ…え?…こう客の前で胸を開いて…胸を…?…)
若者は妙なことに気がつく、女の胸元は大小の差こそあれ膨らみがある。 しかし、向こうに座っている女の胸元にはそれが無い。腰まわりや顔立ちはどう身ても女なのだが。
(?…?…気になる…)
どうでもよさそうな事なのに、酔いが回り興味がそこに集中する。
(確かめてやる。)

ガタン…音を立てて若者が立ち上がる。
「おい、兄さん?」「小便だよ」
言い捨てて、ヨタヨタと戸口に向かう。 そして、女の脇を抜ける時わざとよろけた。
「おっと」倒れこみながら、女の胸元に手を突っ込む。
ドッ…ズッ…ビリリリリ!…
(しまった破いちまった…!?)

女の胸元が大きく口を開けていた。
そこにはあるはずの膨らみはなく…無残な傷跡と…おそらくはそこを焼いた為だろう、ひどい引きつれが胸一面に走っていた。
女はあっけに取られ、そして、褐色の顔がみるみるどす黒くなる。 羞恥ではない怒りの為だ。
「何をするっ!! 貴様!!」
叫ぶのと、女がショートソードを抜き放つのが同時だった。

若者はへたり込んだ格好で女に剣を突きつけられていた。 鼻の天辺をチクチク刺激する切っ先に目が寄ってしまう。
「わ!…よ、よせ!」
「殺す!殺してやる!!」
呆然としていた周りの者達が、ようやく我に返った。
「姐さん! いけません!」「お、おい! やめろ!」
小男が、女を後ろから抱き止め、ほかの者達が女を制止する…声だけで。
店の親父も血相変えて出てくる。
状況を察して一言。「刃傷沙汰は御免だよ!!」

女はじっと若者を睨みつけ、ふっと息を吐いて剣をひいた。
若者はほうっと安堵したが女の言葉にまた青くなる。 「服を弁償してもらおうか」
繊維を紡いで布を織り、人手で作られる服もまた高価なものだ。
「べ、弁償って…か…金なんかねえ!」
「ふん…じゃあ宿代と酒代はお前持だ。 いいな親父」
若者が目を剥き、店の親父を見る。
親父は若者をちらりと見て、首を一度横に振って女に同意した。
若者はなおも文句を言おうとしたが、他の者達も妥当な線だと同意した。

女…カルーアと言った…は椅子に座り呑みなおす。
「ふぅ。 姐さん、ついでに服を繕わせてもよかったんじゃありませんか?」
「酔っ払いにか? ちっ、腹の立つ奴だよ…なんだい?…」
二人に若者と話をしていた中年男が話しかけてきた。
「へっへっ。 いえあたしはしがない物売りでげす…なかなか、腕達者なご様子で」
愛想笑いをする物売りに、カルーアは気の無い様子で応える。
「別に…」
「いえいえ、あの抜き放ちの速さは相当なもので。 どうです、私に雇われてくれませんか」
カルーアが首を傾げた。
「雇いたい?あたしをかい?」
「へえ、あたしはこれから王都まで行くんでげすが、ちょっと予定外の『荷物』を仕入れちまいましてね。 人手が必要になりやして」
「ふん。 あたしは人夫はやれないよ」
「いえいえ、担ぐ必要はありません。 自分で歩く『荷物』でやすから」
カルーアはその言葉で『荷物』の正体を悟り、物売りをねめつけた。 『人買い』は違法ではなかったが、尊敬される仕事でもない。
明日の朝返事をする事にし、物売りを追い払った。

「姐さん…あっしの事なら気になさらないで」小男がカルーアに声をかける。
「心配しなくていいよ。 神殿で見つけた宝石がある。 それより目は大丈夫かい?」
先程までの男勝りの態度が嘘の様に、カルーアは小男に優しく声を掛ける。
「へ…へへ…へへへ…」小男は笑うばかりだ。 声が微かに震えている。
カルーアの表情が曇った。
(もう駄目かい…あの『言い伝え』が本物だったら…)

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