ともしび
31.失火
「この書を書いた者の名は書かれておりませんが…」そう言って住職は静かに語りだした。
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その男はこの地の郷士をしており、一女がおりました。 その娘の名が『蛍』。
母親は『蛍』とを産んだおりに… 当時は珍しいことでもなかったのでしょうが。
その『蛍』も数えの七つの年に病にかかり… 日に日に弱っていく娘を前に父親の嘆きはいくばくか…
そんなある日、父親が祈願に赴いたこの寺の書庫でこの箱を見つけましてな。
中にはこの絵文字と唐文字の書、そして2つの『灯心』が納められておりました。
さして学のあった訳では無かったの父親の目を引いたのが…ほれここです。
『魂』…『縛』…『不死』…
何かのまじないぐらいに思ったのでしょう。
父親はか細い息をする娘に『灯心』を咥えさせました。
その翌日、娘は血を吐いて… 血を吸った『灯心』が真っ赤に染まり… うっ… すみませんな、つい。
その時、『灯心』に火がつき… 不思議なことに『蛍』の顔が浮かんだと書いてあります。 しかも父親に話しかけてき
たと。
父親はその不思議にたいそう驚いたとあります。
不思議はそれだけでは終わらず、娘の体は腐る事もなく次第に溶け、やがて一本のロウソクに変じてしまったそうです。
父親はロウソクに変じた娘を隠し、仏門に入って寺の書を懸命に読み解こうとしました。
数年の歳月の後読み解けた部分にはこう書かれていたそうです。
「この『灯心』は不死を目論見たる者が作り出したる物にて、『魂』を『ともしび』と化してこの世に留めおく道具なり。
『魂のともしび』が燃え続けには『糧』が必要であり、『灯心』には人の精、肉、血を糧に変える力を与え、『魂のともしび
』の輝きに人の欲をさらけ出し精をあ瞑る力を与える。されど試みは失敗に終わりたり…」
父親はたいそう驚き、己が所業を嘆きました。
しかし、その頃には『蛍』のロウソクもかなり小さくなっておりましてな…
『蛍』を二度失うことに耐え切れず、父親は『蛍』を本堂の燭台に移しました。
書の内容を、「『魂のともしび』は他人から精気を吸って燃え続ける」と解釈したのですな。
そしてある晩…見てしまったのです。 寺男が『蛍』と…少女の形を炎と交わる様を…
小坊主が、住職が、村の者が…『蛍』に精を吸われ、『蛍』は燃え尽きることを免れました。
しかし、娘の浅ましい所業に父親は深い悲しみに襲われるようになりました。
それでも『蛍』は自分の娘…父親は書の残りを必死に読み解き、そのかいあって『蛍』は人の姿に変じる術まで身に
着けました。
ここまでくれば『蛍』が人として暮らしていける…はずでした。
しかし、幸せは長くは続きませんでした…
『蛍』はもはや人ではない、年老いず、子は産めず、その心は七つの娘の時から変わらなくなっていたのです。
やがて『蛍』の所業が怪しまれるようになる頃、父親は床に就いたまま起き上がれなくなりました。
そして…ついに『蛍』は妖しとして寺から追われ、姿を消しました。
父親は『蛍』が生きている事を信じ、その行く末を案じつつも、どうすることも出来ず、ただ自分の寿命が尽きるのを
待つ事しかできなかった…
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ふっと住職が言葉を切る。
エミはその姿が揺らめいだ様に見えた。
「それで?その父親は其のまま亡くなったのですか?それとも…」エミは言葉を切る「使ったのですね。もう一本の『灯心』を」
エミは住職を見つめた。 今度は辺りの景色が揺らめく。
「父親は…そう貴方は」
住職がぼそぼそと呟く。
「あれは…女にしか使えぬと…判っていた…しかし」 住職の体が溶けるように崩れていく「娘を…あのままには出来
んかった…見守ってやりたかった…わしは…間違っていたのか?」
しぃしぃしい… 蝉時雨が帰って来た。
エミは、自分が崩れかけた石の祠を、その中の今にも消えそうな小さなロウソクを見つめているのに気が付く。
”蛍を…娘を…頼む”
エミの耳に住職の声が聞こえた。
「…勝手なことを…」 苦々しげな呟きを漏らしてエミは立ち上がる。「しかし人の作った妖しだったとはね…さて、あの
子が何か知っていればいいけど…」
パチリと音を立てて携帯電話を開き、一瞬躊躇してからあて先を選択しコールボタンを押してから耳に宛った。
”はいはーい。ミスティだよー”
脳天に突き抜けそうな明るい声に眩暈を覚えつつ、エミは用件を告げる。
陽がかなり傾いてきた頃、エミはタバコ屋まで戻ってきた。
「あのーすいません。電話を貸していただけます?」
「あれ、あんたかね。ほれそこの奴を使えばよかんべ」
「いえ…相手先が携帯電話なんですけど、公衆電話からだとかからなくて…」
エミはタバコ屋の中に入れてもらうと、メモを見ながら敬の携帯電話をコールする。
(私の番号を残すわけにはいかないからね)
程なく敬の携帯がコールされる…が
”只今電話に出られません…” と敬の声。
エミは仕方なく電話を切ろうとし、次の言葉に手を止めた。
”…ジョーカーさんでしたら伝言があります。 伝言サービスの****にかけて下さい。パスワードは彼女の名前です”
エミは電話を切り、そのままの姿勢で考え込む。 (…あの子、まさか…)
電話を再び取り上げ、言われた番号をプッシュする。
”ジョーカーさん、すみません。蛍が僕を呼んでいるんです…”
受話器を握るエミの手に力がこもり、ギリリと不快な音を立てた。
”…これを聞いていると言うことは、失敗したと思ってください。 『蛍』はこう言っていました…”
エミは固い表情で敬の声に耳を傾けた。
ガチャ… エミは敬の伝言を聞き終え、受話器を下ろした。
タバコ屋の店主に礼を言って電話代を渡し、長くなってきた自分の影を追うようにして駅に向かう。
形の良い赤い唇から呪いの言葉…いやぼやきが漏れる。
「どいつもこいつも勝手なことばかりして… マニュアルもろくすっぽ読まずに機械を動かしてぶち壊す上司、設計抜きで
製造に取り掛かって取り返しの付かない事態を引き起こす新人…」
大きなため息をついて肩を落とすエミ。
「…その尻拭いをさせられて徹夜する羽目になった中間管理職の気分よ…」
心なしか背を丸めて歩くエミの後姿に哀愁が漂っていた…
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