紫陽花

30.約束


いない…いない…
ユウジは、憑かれたように紫陽花の葉を一つずつ裏返す。
何を探しているのか自分でもわからない。
しかし彼は直感していた、(今だ…今を逃したら…もう二度と…)

いつのまにか傘を放り出し、降りしきる雨にぐっしょりと濡れていた
濡れた体が重い。
雨が目に入り、何度もぬぐう。
それでもやめない。

ズシャ…つんのめりそうになり、手を突いて体を支えた。
体が冷えて震えが止まらない。
「うっ…うっ…くうぅぅぅぅぅ…」
うつむいたユウジの口から嗚咽が漏れる。
ドスッ、地面をこぶしで殴りつけた。
ザー…その背に容赦なく雨が降り注ぐ。

…どのくらい立ったろうか。
ユウジはのろのろと立ち上がった。
「帰ろう…そして…」その後は言葉が出なかった。
紫陽花に背を向け、傘を探して辺りを見回し…途中で動きが凍りつく…

呆けたように一点を見つめるユウジ。 その視線の先にベージュのレインコートを着た女が…マリアが…雨の中に佇んでいた。
「あ…あ…」
ふいに涙があふれてきた。 そして、さまざまな思いが…
ユウジは、手を伸ばす。 足が自然に前に出る。 

ズシャ…その音が合図となったかのように、マリアが口を開いた。
「さよならと言ったはずよ…」
冷たい言葉にユウジの足が止まる。
高鳴っていた胸が、冷たい手で鷲づかみにされた。
涙で曇った目を乱暴にぬぐい、マリアの顔を見つめる。
美しいその顔に笑みはない…まるで無表情な仮面をかぶっているよう。 その下にあるのは『怒り』か『拒絶』なのか。

ユウジは、再び泣きそうになるのを堪え、首を横に振る。
「マ…マリアさん」
マリアの眉がピクリと動く…が、それ以上動く気配はない。
ユウジは再び歩み寄ろうとするが、マリアの態度に足が動かない。
二人の間に見えない壁があるようだ。

空気が揺らめいた。
ユウジははっとする。
マリアの姿が霞む。(そんな!) 
バシャバシャバシャ!! 「きやっ!?」
ユウジは一瞬で呪縛を破り、マリアに駆け寄って抱きしめた。
濡れたレインコートを通して、マリアの体の感触がユウジに伝わる。 マリアの匂いがユウジを包む。
そして…再び固まる二人。

…ザー…
ユウジはマリアを抱きしめ、離そうとしない。
マリアがようやく口を開く。
「…ユウジ離して…そして帰りなさい」
言葉は冷たい。 しかし宥めるような口調だ。
「いやだよ…もう帰るところなんてない…マリアいやだよ…」
泣きじゃくるユウジ。

マリアは、立ち尽くしたままぽつりと言う。
「…どうせ…あたなも体目当て…」
その言葉にはっとして、ユウジはマリアの顔を見つめなおす。
マリアの顔には、深い憂いが刻まれている。
マリアは続ける。
「ユウジ…あなたもそう。 静でも…真紀でも…誰でもよかったんでしょう。 快楽を与えてくれる体なら…」

ユウジは顔を歪める、彼女の言う事はある面真実を突いていたから。
「そうかもしれない… でも、本当に欲しいのは…マリアだから」
ユウジとしては精一杯の気持ちを伝える。
「本当?」マリアが聞く。
「…うん…」頼りなげに応えるユウジ。

マリアはそっとユウジを引き剥がす。 そして、両手でユウジの顔を挟み、自分の顔を寄せてきた。
微かに青く光る瞳がユウジを見据える。
そしてユウジもその目を見返す。
体が甘く疼く…マリアの魔性がユウジを捕らえていくのがわかる。
ユウジの体はそれに身を任せようとする。 が…
「それなら約束して」マリアが真剣な口調で言う。
「約束?」
「私を…私だけを愛して。 そして、溺れないで」
「?」
「私の体に…その快楽に…」
「?…どういう意味なんだ…」
「自分を見失わないで…耐えて…」
ユウジにはマリアの言葉の意味が分からない。
(精を漏らすな…という事なのか?…)
「…よく、わからない…でも、出来る限り耐えるよ…だから、マリ…」
ユウジはその先を言えなかった。
マリアの唇がユウジを捕らえたのだ。
柔らかな舌がユウジの唇を舐めると、当たり前のようにユウジが口を開く。
(あ…あ…)
互いの舌が申し合わせたように絡み合い、互いの肉体を一つにしていく。
マリアの舌が口の中に入ってくる…執拗にユウジの口の中を嘗め回す。
マリアに犯されていく…そう思うと、性器が硬くなって行く。 たとえようもない幸福感が溢れて来る。
このまま、マリアに身を任せてしまいたい。
(溺れないで…)
しかし、マリアとの約束がある。
必死で己を保とうとするユウジ。

「ん…ん…」
今度はマリアがユウジを抱きしめてきた。
マリアの甘い香りが体に染み込んでくるようだ…溶けてしまいそうな心地よさ…
(耐えるんだ…耐えるんだ…)
うわごとの様に心の中で呟く…体の芯がジーンと痺れてくる。
自然に力が入り、硬直していく。
(マリア…マリア…いく…いってしまう…)
(いいわ…いってもいいわ…でも自分を保って…頑張って…)
マリアの許しが出るまでもない…
心地よい痺れで頭に血が上る。 耳鳴りがする。 何かがキュゥッと固まって…
(あ…あ…い…いい…よ…)
ユウジは快感に身を硬くし…「は…あ…」うっとりと熱い息を漏らした…
女のように、精を漏らすことなく絶頂に達したのだ。
体がぽうっと熱くなり力が抜けて行く…余韻の暗黒に意識が溶けて行く。

マリアの腕の中で、ユウジは安らかな表情で意識を失っていた。
「ユウジ…立派になって…やっと…」
マリアの顔に笑みが浮かんだ…優しいとも…淫靡ともとれる不思議な笑みが。
「案内してあげる…私の『個室』に…あなたなら」
そして、マリアとユウジは抱き合ったまま、雨の中に溶けるように消えていった。

ザー…無機質なコンクリートに囲まれた空き地。 そこにはもう誰もいない。 その真ん中にこうもり傘が逆さに転がり、チョロチョロチョロ…あふれた雨水が流れ出す。


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