紫陽花

29.そして、10年


「…300万。 こんなにかかるんですか…」
「はい、多少高いと思われるかもしれませんが。 内訳は、会場の借用費、戒名代、…」
ユウジは息を吐き、黒服の男の説明を遮る。
「わかりました、お願いします。 それで支払いですが…」

昨日、ユウジの両親が死んだ。
交通事故だった。
定年を迎えて悠々自適、手始めにフルムーン旅行にでも出かけ…その旅行先で事故にあったのだった。
涙は…出なかった。
最初は警察から電話があり、そして二人が収容された病院に行き…生まれて初めて「安置室」というものに入った。
自分でも驚くほど平静だった…もっとも、他人がみたら茫然自失としているように見えたろうが。
身元を確認して室外に出ると、葬儀屋が待っていた。

ユウジは事務的に葬儀屋の男と話を続ける。
(坊主丸儲け…だったっけ…)
ぼんやりと思った。

翌日、どんより曇った空の下で、両親の葬式がしめやかに行われた。
(少ないな…)ユウジは思った。
参列者の香典は、そのまま葬儀代に当てられ、足りない分は両親の生命保険から出て行く事になる。
(…僕は…こんなあさましい人間だったのか…)
そう思ったら、急に泣けてきた。
参列者は、「両親の死を悲しむ一人息子」になんとなく満足した。

グビ…ユウジは火葬場から実家に帰り、両親の骨壷を居間に安置すると台所で缶ビールを開けた。
そして、手提げ袋から名簿を取り出してテーブルの上で広げる。
会社の同僚、パート先の同僚、高校の同級生…書き込まれた弔問客の「故人との続柄」を見ながらユウジは考えた。
「…ほんとに親戚がいないな…」
二親の両親…つまり父方、母方の祖父、祖母はとっくに他界し、両親は共に一人っ子…ということは…
「これが…天涯孤独…ってことなのか…」
使い古された言葉を口にした途端、胸が締め上げられるような気分になった。
…もうこの世に自分の事を思ってくれる人はいない…ようやくその事が実感できた。
天井を見上げ…突然一人で家にいるのが嫌になった。
ユウジは家を出ようとして空を見上げ…憂鬱な空模様に気づき、傘立てから蝙蝠傘を乱暴に引き抜いて歩き出す。

黒服の男が歩道のブロックの噛み合わせの線を追いつつ、あてどもなく夜道をさ迷う。
ポッ…ポッ…
顔に雫が…空を見上げるが、夜空に雲が見えるはずもない。
傘を広げながら、ふと思い出す。
「前にもこんな事が…ああそうか…」
思い出した…もう10年にもなろうか…ここで…あの人に…
「どうして忘れて…違うな…忘れられなかったんだ…」
そう呟いて、ユウジ辺りを見回す。
ずいぶん様子も変わった…でも…
「まだあるのか…」
ビルの隙間の狭い路地を見つけ呟いた…そして彼は、その路地に歩みを進めた。

歩きながらユウジは考えた。
(いろいろ…あった…いや、なかったのかな…)
大学に入った頃から、ユウジは、女達に呑まれた四人に対して罪悪感を覚えるようになっていた。
何とかすべきではないか…その思いは日増しに強くなっていった。
だが、何ができるというのか…
『紫陽花』を探し出して彼女達と対決する?
全てを明らかにし、闇に隠れた者たちを白日のものに引きずり出す?
わからない…とにかく『紫陽花』の謎を解明しなければ…ユウジはそう考えた。 だが…
三度びあの空き地を訪れると、今度は『紫陽花』どころか紫陽花の木がなかった。
ユウジは辺りを探し回り、時には地面を掘ってさえみた。
でも…なにも見つからなかった…
それでもユウジは諦めなかった。
辺りに住む人、図書館、警察の失踪記録、寺社の過去帳…思いつく物を片端から調べて回った。
だが、彼の求めるような情報は見つからなかった。

学校も休みがちになった。
空き地にやってきては、地面に這いつくばって何かを探す…
(どうして僕はこんな事をしているんだ…)
そう思ったことも一度や二度ではない。
だが…諦めきれない。
(そう、諦めきれない…!?)
そしてある日気づく。
(まさか…マリアを!?)
自分がいまだに彼女を追い続けている事を…
そしてユウジ探索をやめ、学校に戻った。

…彼女は出来ないの…
…見合いをしろ…
いつしか、両親がそう言う年になった。
就職もした。 
新しい友人もできた。
しかし女性とは…『女』とは…うまくいかなかった。
その筋の店にも行ってみた。
が、『紫陽花』の女を知ってしまった為だろうか、ユウジの『男』は反応しなかった。
商売女は、決して客を馬鹿にしない。
時間の間にいろいろ試してくれる…逆にそれが悲しくなる。
そして、ユウジは『女』から遠ざかっていった

(『お姉さん』達には…迷惑かけたよな…?)
自分の考えに浸っているうちに、あの『空き地』についていた。
ビルで囲まれた、非現実的な四角い空間…その中心には…
「あ…紫陽花の木が!?…」
何度探してもなかった…それが…雨に濡れたそれが

「…何故気がつかなかった…あれは梅雨の…」
『明けたわ…梅雨が。』マリアはそう言った…そして消えた…
歩み寄るユウジ…
紫陽花の木を前に胸が高鳴る…そして…いろいろな思いが溢れてくる。
ボ…ボ…ボ…ボボボボボボ…
大粒の雨音を聞くうちに、いつしか涙があふれて来た。

紫陽花の葉に触れ…それがそこにあるのを確かめる…
「マリアさん…」
ユウジは首を振る…
「僕は…あなたを…」
頬に涙が流れる…
(…もう一度…会えたら…)

ザー…雨が本降りになり始めた。


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