紫陽花

22.アメフラシ


サー…雨音が満ちた夜更けの街角を…

ザー…時折車が走り抜ける…


ザー…ザザッ…

料金計に『割増』の文字を光らせたタクシーが、やや乱暴に止まった。

「おおっ?。 …ふぁ…着いたのか?…」

後部座席でうたた寝をしていた客が、あくび交じりに運転手に声を掛ける。

「あ。すいません…いえまだです」 運転手は外を窺いながら答える。

「どうした?猫でも飛び出してきたのか?」

「今そこに女の子が歩いていた…と思ったんですがね…」

客は運転手の指差すほうを見る…霧雨で視界が利かないが、何かがいる様子は無い。

深夜とはいえ街中、十分に明るい。

そういう場所だから、『深夜営業』の女がいても不思議は無い。

「いや若い女じゃなくて、本当に女の子でした…見た目10歳ぐらいの…」

「え…おいおい…怪談話はよしてくれ」客が苦笑する。

「そうじゃないんですが…気のせいかな」運転手は首を傾げ、ギアを入れる。


ザーッ…タクシーが走り去り辺りが再び静かになった。

と、彼らが見ていた辺りに、濃い霧が立ち込めてきた。

霧の一部がいっそう濃くなり…人の形をとり…そして少女の姿となった。

それは真紀だった。


「ふぅー。 あぶなかったぁー」

真紀は呟く。

…おおきいみちだとみつかっちゃうよ…

他のの少女の声がした…しかし他に人の姿は無い…


「むぅ。 だって糸をたどらないとわかんないもん。 そういうならかわってよぉ」

…じゃんけんできめたでしょ…

「ぷぅ」

真紀は頬をぷっと膨らませ、その場を離れる。

ペタペタペタ…頼りない足音をたて、真紀は歩き出す。


人気の耐えた街角を靄に包まれ歩む真紀。

前後からの街灯の明かりが、靄の中に彼女の幻を幾重にも映す…

あたかも真紀が何人もいるように…


やがて真紀は目的地に到着した。


−−「浅学寺」−−


真紀は薄汚れた山門に掲げられた扁額を見上げた。


『寺学浅』


「んーと…よめない…」

彼女の周囲から微かな声が上がる

…てら…あさだよ…みぎからよむの…


真紀は声には取り合わず山門をくぐる。

ペタペタペタペタ…

真紀は静に示された『光る糸』を辿り、本堂の方に…と、その歩みが止まった。


ゴー…ゴゴー…

地鳴りのような低い音が本堂から聞こえてくる。

「?」

真紀は足音を立てないようにそっと本堂に近づいていく…


グガー…ググー…ゴガー…

本堂の中を短くなったロウソクの炎が不気味に照らす。

音の正体は、本堂の真ん中に寝転がった岩鉄の鼾だった。


真紀は、本堂の扉のかげからちょこんと頭を出して『謎の物体』を観察する。

「…んー?…」

正体を図りかねていると、周りの霧からこしょこしょと声がする。

…あれがくまおとこだよ…いや、とどおとこ…


その時、別の声が聞こえた。

「うーん…くぅ」

真紀はその声に聞き覚えがあった。

「ユウジおにいちゃん…中にいる…」

真紀は目を凝らして本堂の奥を伺う。

ユウジは、奥にある仏像と『物体』の間にいるようだ。

(…「お風呂の部屋」3つ分くらいかな…「くまおとこ」はねてる…そーっといけば…)


真紀が本堂に一歩踏み込む。

ペタッ。

ガバッ!

「誰じゃぁ!…ふんが?…ぐぅ…」

ドテッ。

裸で寝ていた岩鉄(酔っ払って脱いだ)が、真紀の微かな足音を聞き分け、寝ぼけたまま起き上がり誰何したのだ。

岩鉄は入り口に向かって一声吼え、誰もいないとわかると再び寝転がり鼾をあげはじめた。

グゴー…ガー…


岩鉄が横になるとすぐに、扉の影から真紀が顔を覗かせた。

彼女は突然立ち上がった岩鉄に驚き、扉の影に身を隠していた。

「ふわぁ、びっくりしたぁ」

またも真紀の周りの霧からで声がする。

…くまおとこ…あなどれない…

「どうしよう…」

…『ほわほわ』で…それならあしおとは…

「…でもぉ、お兄ちゃんの所までいってから、くまおとこが目をさましたら?」


……沈黙…………


…なら…おこしてしまおうよ…

「えー?…」思わず声が大きくなり、慌てて口元を押さえる真紀。


…はじめからおきてれば…びっくりしないでしょ?…

「…おこして…それから?…」

こしょこしょと、霧と相談する真紀。

…『アメフラシ』…


少しして相談がまとまったのか、真紀は扉の影から出て本堂の入り口に仁王立ち(のつもり)になる。

そして、精一杯の声を上げる。

「たーのーもー!」

ガバッ。 再び跳ね起きる岩鉄。

「誰じゃぁ!…おりょ?…」

門にたつ人影を認め、それが年端も行かぬ女の子である事に気がついた。

「な…なんじゃ?…おんし」

面食らう岩鉄。

無理も無い。

深夜、子供がこんな所に居るわけが無い。

しかも真紀は薄いピンクのネグリジェをはおり、それがぐっしょりと濡れ幼い体に張り付いている…危ないというか、い

たいたしいというか…


さすがに岩鉄は困惑し、一応常識的な対応を取る。

「こりゃ、子供が夜中にこんなところきてはいかん。 とっとと帰れ」


ぶぅ…子供扱いされ、真紀は頬をふくらませる。

うんと気合を入れ、可愛い声で応じる。

「えーわれこそは、あじさいの『真紀ちゃん』なりぃ。 ユウジおにいちゃんをむかえにきたぁ」


岩鉄は口をポカンと開け、5秒ほど固まる。 そしてようやく真紀の言葉が頭に入る。

「?…まさか、おんしは着物の女の身内か?…」

「いかにもぉ。 ついでに静ねえちゃん…もとい静姉様のかたきもうちにきたぁ…ぜいぜい」

息が切れたようだ。


岩鉄は額を押さえ、首を横に振る。

(どいつもこいつもいかれとる。世も末じゃ…)

と、自分の事を棚に上げる。


(こんな子供にどうすれば…おおそうじゃ。 また塩でもまけば、驚いて逃げ帰るじゃろう。)

懐に手を…入れようとして、やっと自分が裸である事に気がつく。

頭をかいて、そばに散らばっていた鈴懸(法衣)を探り、紙包みを取り出し、中身を拳に収める。

「…塩!…」

真紀は岩鉄が塩を撒こうとしているのに気がついた。


岩鉄は真紀に向き直り…「!?」…驚きで目を見開いた。

真紀の体から煙が立ち上る…いや、全身が霧のように曖昧になり、形が無くなっていく…

「な…」

真紀から噴出す霧は天井に向かって立ち上り、残る真紀の体はみるみる薄れて…なくなってしまった。


茫然自失の状態にあった岩鉄が口を開く。

「…ふ、ふん…なるほど…なるほど…」

判ったような事をいっているが、彼の体はじっとりと汗をかいている。

その語尾が震えている。


ポタッ…

「?」

ポタッ…ポタッ…

ポタッ…ポタッ…ポタッ…

何か雫が垂れるような音が聞こえる。


ピトッ…

岩鉄の首筋に冷たい…いや、生暖かい雫が落ちた。

「…!?…」

首筋に手をやる。

ヌルッ…滑るような感触…水ではない…

(上…上か…)

岩鉄はゆっくりと視線を上げ…そのままの姿勢で固まった。


ヌチャ…ヌチャ…

真紀はそこにいた…

真紀だけではない。 同じくらいの年頃の少女が…裸の娘達が…何人も天井に張り付いている。

「…な…」

彼女達は天井に背中をピタリとつけた姿勢で岩鉄を見下ろし…ゆっくりと這いずるように動いてる。


ジ…ジジ…

ロウソクの明かりが揺れると、娘達がテラテラ光る…濡れている…全身何かで濡れている…

ツー…ポタッ…ツー…ポタッ…ツー…ポタッ…

娘達の体を濡らしているものが天井から雨のように落ちてくる…長い糸を引いて…


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