紫陽花

20.邪魔者


ユウジは茫然と佇む。

引き締まった背筋が…彼が信頼した『先輩』が…女の乳に…『肉欲』に呑み込まれて行く…

ヒクッ…ヒクッ…逞しい背中は快楽に打ち震え…やがて白く滑らかな皮膚に変わり…完全に乳房そのものと一つになった…

ブルン…なまめかしい塊は一つ大きく震え、動かなくなった…


気がつけば、ユウジは床にうずくまっていた。

床を覆う砂岩のタイル、その不規則な縁を意味もなく目で追いかける。

(先輩…どうして…)

思考が先に進まない、そして胸痛む…締め付けられるように…


………

…………

……………パシャ


微かな水音が、ユウジの注意を現実に引き戻す。

タイルの縁を踏む白い足。

ユウジが顔を上げる…静…等身大にもどっている。


「!」…立ち上がろうとして、足を滑らし尻持ちをついた。

静が覆いかぶさってくるのを予想し、目をつぶる。

フワッ…空気が動き…女の匂いが間近でする…それだけだ…

そっと目を開けると、静の顔が目の前にあった…


青い瞳がユウジを見つめている。 つい、視線を逸らす。

「…寂しい…」 静がぽつりと言う

「え?…寂しい?」 思いもかけぬ静の言葉、ユウジは虚を突かれ、静を見てしまう。


静は真剣な表情でユウジを見つめている…

「貴方は…寂しいのですね…」

「寂しい?…僕が?…」

「寂しい…置いていかれた…」

「僕が…置いていかれた?…」(そう…なのか?…僕は?…置いていかれたのか?…)

胸の痛みがなんなのか…ユウジには判らなかった…


「寂しい…置いていかれた…」

淡々と静は繰り返す…

「寂しい…」ぼそりと口に出してしまう。

一度口に出すと、胸を締め付ける痛み…寂しさだったような気がしてくる…

切なく…寂しい…そして…

ユウジは、静に抱きついてしまった。

フニュ…柔らかな感触…恐ろしい…いや男を優しく包み込んでくれる魔性の果実の感触…

胸に吸い付いて…柔らかく蠢いている…

「は…はぁ…」

胸が心地よい…痛みが遠のいていく…そして頭の中もぼうっとしてくる…

「あぁぁ…」

嫌な事を忘れたい。信じたくない。

そんな現実逃避が、ユウジの心を無防備にしていた…

静は今度こそユウジの心を絡め取っていく。


あむ…静が口付けを求めてきた…

トクトクトク…鼓動を3つ数えた後…静の舌がそっとユウジの唇の間を横になぞった…

誘われている…ユウジは唇を開く。


静の舌がユウジの口腔に侵入し…ユウジの舌の上を這いずる…ヌルヌルした感触…

ヌチュ…ヌチュ…口の中で、静がユウジを愛撫する…

舌だけで、静に犯されていく…ユウジは目を閉じる静の舌に身を委ねた…

(そのまま…全てを委ねなさいませ…)

(委ねる…)

(ええ…貴方は何も考えなくてよいの…全て私に任せて…)

ユウジは逆らわない。

もう彼には頼るべきものは無いのだから…

静に言われるままに心を開く…静が頭の中を優しく愛撫する感覚…


静は、目を開いたままぐったりしたユウジをそっと横たえ顔を上げた。

静の唾液が、二人の唇の間で糸を引く…

彼女は手を口元に持っていくと、何かを手繰るようにした。

その動きに引かれるように、ユウジがのろのろした動きで起き上がる。

静は満足そうに微笑んだ…


……………………………………………………

雨は小糠雨になっていた。

傘を差してもじっとりと体が湿ってしまいそうな闇…そこを奇妙な二人連れが歩いている。

前を行くのは、白い着物の女…その後をとぼとぼとついて行くのは、ポロシャツ姿の少年…

すれ違うものがいれば、少年の周りを霧のようなものが取り巻き、二人の間に時折糸のようなものが光るのに気がつ

いただろう。

時間は深夜10時を周り、通行人も見当たらない。

ユウジは人形の様に、静の後をついて行く。


ガッ…ゴッ…ガッ…ゴッ…

二人の向かう先から、奇妙な音が聞こえてきた。

重々しく木がきしるような音だ。

ユウジの歩みが止まる。

静も歩みを止め、怪訝な顔でユウジの様子を伺う。

先ほどまで空ろな目をしていたユウジ。

いまは眼球がが左右に動き、正気にもどりつつあるようだ。

(変ですわね…心の拠り所を無くして私に心を委ねたはずなのに。 姉様の呪縛で私の技が掛かりにくいのでしょうか?)


静が戸惑っているうちに、妙な音はどんどん近づいてくる…そして、ガラガラ声の調子の外れた怪しげな歌が聞こえてきた。

「酒がなければこの世は闇よ〜金がなければ立ち行かぬ〜」

歌…と呼べるかどうか判らぬものをがなりながら、一人の男が二人の行く手からやって来た。

一見して山伏のようにも見えるが、数珠やら十字架やらを首にかけ、背中にナップザックを背負ったその姿はかなり

変だ。

何よりその体格。 熊と見間違えそうな大男だ。

木のきしむような音は、男の体重に耐えかねた下駄の悲鳴だったようだ。

それは、ユウジの先輩の一人…『拝み屋岩鉄』だった。


岩鉄はずんずん近づいて来る。 

静は岩鉄に気がつき、至極真っ当な判断を下す。

(係わり合いになってはなりませんね…)


静は岩鉄の方に背を向けて、ユウジの顔を伺う様にした。

一見すると、夜道で男女が話をしているようにも見えるが、雨が降っている。

それに、二人とも傘もさしていないので、不自然極まりないが。


岩鉄は、二人のすぐそばまで来て、ようやく人影に気がついた。

無遠慮に女の顔を覗き込みながらすれ違いかけ…少年がユウジである事に気がつく。

「おおっ? おんしは…そうそう剣崎ではないか!」

静は内心舌打ちをする。 よりにもよってユウジの知り合いとは。

岩鉄は、酒臭い息を撒き散らしながら続ける。

「いや奇遇、一日の内に二度も会うとは! おお、こちらの美人は剣崎の姉さんか? がっはは、是非紹介せい!」

一気にまくし立てたが、ユウジは反応しない。

いや、わずかに逃げ腰だ…どうやら静の呪縛より、岩鉄に対しての生理的拒否反応が強かったらしい。


岩鉄は、ユウジの態度に立腹する。

「おい、返事をせんか!!」

ユウジの腕を掴み引き寄せようとする。

静は、岩鉄の誤解を利用する事にした。 岩鉄の手を押さえ、『弟』を気遣う『姉』を演じる。

「おやめくださいませ。 弟は熱があるのです。 急ぎ病院へ連れて行きませんと」

「ん?病気か?…ふん、弱な奴だ。 まあいい、夜道は物騒だ。 わしが付き合ってやる。 感謝せい」

岩鉄は静の顔につばきを飛ばしながら喚く。

親切心…というより下心が丸見えであった。


静は岩鉄を黙らせるしかないと判断した。

(乱暴な殿方は苦手なのですが…仕方ありませんわ…)

岩鉄の顔にふぅっと息を吐く…

「おい…悪戯はよさ…むっ?…」

静の息は、白い塊となり、岩鉄の顔に纏わりつく。

「お?…おおっ?…」

岩鉄は、異様な脱力感に襲われる…普通ならそのまま身動きできなくなるか、見境無い興奮状態に陥るか…だった

のだが…


「え?…ひっ!」

静が悲鳴をあげた。

少々岩鉄は飲みすぎていたようだ、酸っぱい匂いの流動物を盛大に吐き出した。

静は身を翻して距離をとり不快な攻撃を避けた。

しかし、そのためにユウジから離れてしまった。


「げふっ…いや失敬…ではない。 おのれ、怪しい奴め! 可愛い後輩をたぶらかしておったな!」

口を拭って喚く岩鉄。

が、彼が状況を把握しているわけではない。

彼にとって他の人間は、収入源か、欲望の対象、そうでなければ「敵」なのだ。

そして、宗教(?)的な儀式として払うのであれば、多少無茶をしても罰せられない…と決め付けているのである。


静は岩鉄と対峙する。

(なんて下品な…どうしましょう…)

突発的な事態で対処の方法が思い浮かばない。

せめて『風呂』ならば『技』のふるいようもあるのだが。

もっとも、静は楽観していた。

人間の、それも男ならば自分にかなうわけがないと考えていたのだ。


静が考えこんでいるうちに、岩鉄が次の行動に出た。

「オンバサラキソラソワカ! ウンハラヤマサラ…」

何事か唱え、数珠を持った手を突き出し、ジャラジャラ音を立てる。

当然、静には何の影響もない。

(苦しんで見せて…そのまま寝技に?…ですが芸がありませんわね…)

静は岩鉄の実力を見抜き、恐れるに値しないと判断した。 それが油断を生む。


岩鉄は、真言(?)が効果なしと見るや、懐に手を突っ込み紙包みを取り出す。

一気に引き裂いて、中身を投げつけた。

「ギャァァァァァァァァァ!」

すさまじい悲鳴が響き渡った。

あまりの反応の激しさに、岩鉄のほうが腰を抜かした。

そして、静の姿が煙に包まれ…かき消すように消えた。


静が消えると同時に、ぼうっと立っていたユウジがくたりと地面に崩れ落ちた…

腰を抜かしたまま、岩鉄が呟く…

「な…なんじゃ…消えた?…ほ…本物…まさか…」

そして黙り込む。


雨は、音もなく降り続いていた。


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