深き水

9.川上礼二


マンション・ゼロ505号室。
散らかっているかと思ったが、以外に片付いている…物がないからだ…2DKのマンション、そこが礼二の家だった。

ソファ…はないのでベッドに座っているエミ…
紅茶を出す礼二。
「すまないね、客を迎えることを考えてなくて」
「おかまいなく。それで、聞きたいことって何かしら」
「この所、妙な事件が起きてる、知ってるかい?…」
「『戦慄のミイラ事件』、今日の夕刊で2件目が起きたらしいって」
「その現場で、僕は2度とも君を見た…」
「……」
「何か、知らないかい?…」
「野次馬してただけよ…」
「君は昼間は苦手だと言ってただろう、それでも偶然だと…」
「……」答えにつまるエミ。
「君を疑っている訳じゃない、正直手詰まり状態なんだ、何か見たのなら教えて欲しい」

エミは迷った。警察と関わる事は考えていなかったし、今の自分の助けになるとは思えなかったから。
”どこかで目撃されたかな?…それはないはずだけど…”
”正体をばらすのは論外、うまく使えば私の『探し物』を特定してくれるかも…いえ、望み薄ね、第一どう話すの…”
”それより、この人から感じる気配は…適当にあしらって、逆にこの人に張り付いて…”
”でも、嘘をついてばれたらまずいかも…疑われて警察にお泊りは勘弁だし…こういう場合は、事実を一部だけ話すのがいいわね。”
エミは考えた末、自分の正体をばらさない程度に目撃した事を話す事にした。

「わかったわ。確かに事件の合った晩、2回とも近所に…いえすぐ近くにいたの」
「ほんとかい!じゃどうして警察に言ってくれなかったんだ?」
「あまり言いたくないの…お仕事中だったから…それに、信じて貰えないと思ったから…」
「あ、ごめん…それで?何見たとか、聞いたとか?」
「聞いたし、見たわ…変なものを…」
「変なもの?」
「最初は、声が聞こえたの、変な声が…」
「声?どんな?」
「男の声…というより音かしら、ゲロゲロって何かを吐き出しているような」
「嘔吐か…しかし部屋には嘔吐物は無かったな…」
「気になったから、部屋の前までいったら、変なものがドアの下から…」
「ドアの下?」
「そう、ドアの下から、緑色に光る水みたいな液体が流れてきたの、少しドロッとしてたけど…」
「現場にはそんな痕跡も無かったな…それから?」先を促す礼二。
「それだけよ…後は逃げたの…」
「…そうか…」考え込む礼二。

エミは黙っている。
「それで、もう1回は?」
「同じ、声がして…緑の光る水…」
「同じか…」また考え込む礼二。
”この人…あたしの話を疑ってないのかしら?…”
「ありがとう」
「?」
「貴重な証言だ」
”…お人よし…”
「お役に立てて何よりよ…もういいかしら」
「あぁ、すまなかった、夜遅くに」
「いいわ、私にとってはこれからが活動の時間だし」
「あ、そうか。悪い、仕事の邪魔をして」
結局それ以上の話は聞けなかった。 そのままエミを解放する事にする。

礼二は、一人になって考える。
「緑の光る水…被害者の体から出た水か、何かの薬品か…うーん…」
エミが嘘を言っているとは思えなかった。どのみち現物が無いのでは調べ様がない…
”とにかく、明日現場を調べてみるか…そういや、彼女はこれから仕事…ふぅ…”
礼二は、何となく面白くなかった…

一方、エミは礼二の想像だにしない行動に移っていた。
背中から生えた2枚の翼を広げ、マンションの屋上に飛び上がる…
エミは人ではなかった。男を魅了し、その精を糧とする魔物…『サキュバス』、これがエミの正体だった。
もっとも、生まれついての魔物というわけではない。
数ヶ月前にある事件があり、彼女は人間からサキュバスになってしまったのだった…

エミは、マンション・ゼロの屋上に座り込み、辺りの気配を探る。
”どうなるかしら…さっきの気配…間違いなく彼も憑かれている…”

最初のミイラ事件が発生する数日前に、エミは異様な気配を感じた。
『サキュバス』の感覚は、それが『脅威』だと伝えていた。しかし、具体的に、どのような『脅威』なのかがわからなかった。
エミは『脅威』に対して、どうすべきか迷った。
考えた挙句、”『脅威』の正体を可能な限り見極める、もし手におえない様なら、そのときは逃げ出す…”こう決めた。
その方針に従って、気配のする相手を監視していたのだ。
ところが、『脅威』の正体を見定める前に、人間の間でも事件となってしまったのだ。
エミにとって、これはまずい事態であった。悪くすると、自分の存在が炙り出されかねないからだ。
それで、今までに縁のあった別の魔物−−当人は悪魔だと言っていた−−から情報を得て、調査を続けるか、逃げ出すか考えていた矢先だった。

”向こうから来てくれるとはね…彼の行動を監視して、今度こそ『脅威』の正体を特定しないと…失敗したらこの町を離れるしかないわ…”
そこで考え込む。礼二には多少の興味を持っていた。
”あの人の精気…なんて美味しそうなの…死なせるにはおしいわ…”
”今までの例だと、2、3日のうちに危なくなる…その前に彼を助けないと…”
”でも助けるとしてどうやって…”
ハンドバッグの中をあらためる。
「これが効けばいいけど…あてになるかどうか…」
そこでまた考え込む。
”効いたとして…助けた後は?…”
瞳が金色の光を宿す…今後の対応を検討する…


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