魔女の誘い

終章(1)


 一人の男が、森の入り口に立っていた。 すでに日は落ち、月が昇りつつあった。

 「満月の夜には森に入ってはいけない。 帰ってこれなくなる……」

 男は呟き、重い足取りで森の中へと入っていった。 月明かりに照らされた男の顔には、深いしわが刻まれている。

 「満月か……」

 満ちた月が森の木々の頂を、影絵のように浮かび上がらせていた。

 ザワリ……

 木々が揺れ、木の間から薄い靄が漂いだす。 それを見た男は、ビクリと体を震わせて歩みを止めた。

 「……」

 ため息をつくと、男は靄の中へと歩を進める。

 
 森を抜けたところに集落があった。 男は集落の中へと歩を進める。 と、一軒の家から住人が出てきて、男と鉢合わせをした。 住人は、手にした灯りを

掲げ、男の顔を照らす。

 「おや? 旅の方ですか……どこかで会ったような……ビル? ビルじゃないか?」

 ビルと呼ばれた男は、眼を細めて住人の顔を見た。

 「ダニー?」

 ダニーと呼ばれた住人は、大きくうなずいた。

 「そうか……立派になったな」

 無口な少年だったダニーは、がっしりした体格の大人になっていた。 顔が黒っぽいのは、日焼けのせいらしかった。

 「ビル、戻って来たんだな」

 ダニーの顔に懐かしさが浮かぶ。

 「戻った……か……」

 老けたビルの顔に、何ともやるせない表情が浮かぶ。 ダニーはちょっと首を傾げ、ビルを自分の家に招いた。

 
 「ダニーの奥さんと子供か……」

 家の中には女の人と若い娘がいた。 ダニーはビルに食事と暖かいミルクを出してくれた。

 「みんな元気か? アランとディックは? ルウはどうした?」

 ビルの問に、ダニーはちょっと困ったような顔をした。

 「アランとディックは、二人とも少し前に『奥様』に召されたよ」

 ビルは無言で木のカップをテーブルに置いた。

 「そうか……ルウはどうした? やっぱり集落の娘と結ばれたのか?」

 ダニーは、考えている様子を見せ、意を決したように口を開いた。

 「ルウは……今の『奥様』はルウなんだ」

 「え?」

 ビルが絶句する。

 
 ダニーはビルが去った後のことをいろいろと話した。 『奥様』がルウを後継に選び、ルウがそれを受け入れたこと。 館に入って間もなく、ルウが女になり、

そして『若奥様』になったことを……

 「ルウに代替わりして間もなく、『奥様』は姿を消した」

 「『奥様』はどこに行ったんだ?」

 震える声でビルが尋ねた。

 「僕たち……集落の住人は誰もしらないんだ。 ルウ……今の『奥様』なら知っていると思う」

 「気にならないのか」

 ダニーは頷いた。

 「気にしてもしかたないから」

 それでいいのか……ビルは思った。

 「ビル、今日はここで休みなよ」

 「泊めてくれるのか?」

 「当り前さ。 迷い込んだ旅人なら、館でもてなすけど、ビルは嫌なんだろう」

 「ああ……い、いや……そうじゃない……そうじゃないけど」

 あいまいなビルの言葉に、ダニーは首をかしげたが、疲れた様子のビルを問い詰めることはせず、自分の寝台をビルに使わせ、自分は納屋で寝た。

 
 翌朝、ダニーは朝食の後、ビルに事情を尋ねた。

 「戻ってきた理由か……」

 ビルはテーブルの木目を目で追いながら、ぽつりぽつりと話し始めた。

 「ここを逃げ出してから、都に行った……しかし、売れない旅芸人はどこまで行ってもそのままさ。 夢は夢でしかなかった」

 「運がなかっただけだよ」 ダニーが慰める。

 「ああ、そう思うことにするよ……ずっと、劇場の下働きで食っていたんだが……年を取ればそれもできなくなってな」

 「……」

 「最近は体の調子もよくなくて……教会の医者に診てもらったが、先は長くないと言われた」

 「ビル……」

 「好きなことを仕事にしてここまで来たんだ。 悔いはないさ。 ただ、後始末を考えるとどうもな……」

 「……」

 「教会で面倒見てもらうのもはばかられてな。 いっそどこかで行き倒れるか……なんて考えてたら、ここを思い出した」

 「じゃあ『奥様』に?」

 「違う……いや、まあ、考えなかったわけじゃないが。 ダニー、お前やルウがどうしているか、気になってな」

 「ビル……」

 「俺は、お前たちを見捨てたんだ。 顔を出せた義理じゃないと判っていたが、思い出したら無性に会いたくなってな」

 「……」

 「こうなりゃ、怖いモノなんかない。 旅の途中で行き倒れるなら、それでもいいかと思って出発したんだか……そういう時に限って、道ゆきは順調と

来たもんだ」

 ビルは力なく笑った。

 「集落に入ったとたんにお前と再会したのは驚いたが、まぁ、これもミトラの神様のお導きというやつだろう」

 ビルは、言うべきことは言ったという様に手を広げた。

 「迷惑の駆け続けで申し訳ないが、ここにいる間、野良仕事でも手伝わせてくれないか? 多分、一月もすればお迎えが来るだろう。 そしたら……

そうだな、畑の肥やしにでもしてくれや」

 わざとおどけた口調で話すビルだったが、その手が微かに震え、目の端に光るものが見えた。 ダニーは考え込んでいたが、おもむろに口を開いた。

 「ビル。 ルウに……『奥様』に会ってみたらどうだい?」

 ビルは、口をつぐんで目を反らした。

 「……」

 「本当に嫌なら、『奥様』は手を出さない。 それに今の『奥様』はルウだ。 ビルに酷いことしないよ」

 ビルは、不機嫌そうに口を開く。

 「その場合、ここを逃げ出した俺が間違っていたことを認めることになる」

 「ビル」

 「ルウには会っておきたい。 しかし……」

 その時、外に通じる扉がノックされた。 ダニーが扉を開けると、今の館のメイド頭が立っていた。

 「貴女は、お館のメイドさんですね」

 メイド頭は頷くと、家の中に入ってビルに挨拶した。

 「旅のお方。 『奥様』が貴方にお会いしたいとのことです」

 ビルはダニーを見た。 かれが『奥様』に告げたのかと目で問う。 が、ダニーも予想外のことらしかった。

 「……ま、『奥様』はここの支配者、魔女だものな。 全部お見通しか」

 ビルは肩をすくめ、ゆっくりと立ち上がった。

 「ご招待に預かったんだ。 断るのは失礼だな」

 ビルはメイド頭の後をついて館に向かった。
   
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