乳の方程式
Part1最終加速
「春になった時、火口にはミルクの湖が出来ていました…」少年はEペーパーの最後の文章を口に出した。
「坊ず、何呼んでるんだ」少年の肩越しに伸びてきた手が、少年の手からEペーパーを摘み上げる。
「ライブラリの奥にあったんですけど…何だか良くわかんなくて…」少年は困ったような顔で振り返っる「副長どういう話なんですか」
「…あー…僕にもよく判らんな…」『副長』と呼ばれたアジア系の男は、困惑した表情で応えた(ポルノ小説か?こんなものルウ坊が読ん
でいたなんて…医務長が知ったらお怒りだぞ)
少年…ルウは首を傾げ、金色のサラサラした髪が宙に広がる。
”最接近まで6時間” 狭苦しいベッドの列の間に、若くない男の声が響いた。 あちこちで薄汚れた、寝袋が身じろぎする。
”重力加速開始まで1時間だ、聞いてるか野郎ども。配置につけ!…生きて帰りたかったらな”
「…」副長は肩をすくめ、壁のハンドルから手を離して床を蹴る。
灰色のツナギをに包まれた細身の体は、宙をすべる様に飛んで気密ハッチの向こうに消える。
ルウはEペーパーを壁面のフォルダに差込んで、副長に続く。
ルウの背後では、芋虫の様に寝袋から人が這い出して来る。
「さあて…地球に向けて長い船旅の始まりか」誰かがそう言った。
ルウは彼らの声を背中で聞きながら呟いた。「…地球…どんなとこなのかなぁ…」
13年前、人類最後の希望と銘打たれた『マジステール計画』が発動された。
それは、ようやく安定動作技術の確立された核融合炉の燃料採掘計画であり、太陽系最大の重水素、ヘリウム3を保有しているはずの
木星へ『有人採掘隊』100名送り込むという、およそ正気の対極にある計画だった。
そけが実行に移されたということ事実が、人間社会が現状を示していたのだが。
『フロンティア』と名づけられた宇宙船団が出発して数ヵ月後、ルウは女性技術者カルーアの息子としてこの世に生を受ける。
そのカルーアを含め、実に71名の犠牲を出しながら『マジステール採掘隊』は1万トンに及ぶ重水素、ヘリウム3を無人のタンクに詰めて
地球に送り出した。
そして今、生き残った30名が地球への帰還の途に着こうとしている。
副長に続いて、ルウは通称ブリッジに滑り込む。
定員10名の円筒形メインコントロールには、船長を含めて3人が配置についていた。
「船長…やっぱり『鎌』をかすめますか?」 副長のチャンが確認する。
「…最短帰還起動にのるには仕方あるまい」 船長と呼ばれた髭の濃い男が応え、ブリッジ正面のスクリーンを示す。
大きな縞模様の球体が画面の半分を占め、その円周に沿うよう画面を区切る白い三日月…船の乗組員が『鎌』と呼ぶ木星の『輪』だ。
その正体は、20年程前に木星の重力で砕けた彗星の破片の集合体だ。 天文学者ならば、それを間近で観測できる機会に感涙に咽
んだであろうが、あいにくこの船にはそんな奇特な人間は乗っていない。
「『鎌』そのものを突っ切る訳ではないが…近くを通れば、はぐれた破片に衝突する危険は高くなる」
「しかし、今から軌道を変える事はできません」チャン副長。
「判っている、運を天に任せるだけだ」船長は帽子を抑えると、乗組員に指示を出すためにマイクを取った。
彼らが乗っている宇宙船『ニュー・ホープ』は全長百数十メートルの巨体だ。 もっともそのほとんどは無数の重水素、ヘリウム3のタンク
だが。
『ニュー・ホープ』まもなく最終加速を行い、その後この船には推進力と呼べるものは残らない。
ありあまる水素ガスを推進剤にして、採掘基地としていたガニメデの軌道を離れ、数週間かけて木星の衛星と木星本体の重力を利用し
て加速してきた。
そして5時間後に木星本体に対してフライバイ航法をかけ、同時に残る推進剤で最後の加速を行い、最終的には秒速約5kmで地球を
目指すことになる。
それでも地球到達には5年はかかる。
5時間後、『ニュー・ホープ』は木星への再接近点にあった。
「なんか…もう少し緊迫した雰囲気になるのかと思っていたんですがね…」パイロット(一応)のゴンザレスがつまらなさそうに言った。
彼の言うとおり、船内は5時間前と変わらない、スクリーンの半分を『鎌』が閉めている以外は。
「馬鹿言うな、しっかりレーダーを睨んでろ。『鎌』の辺りは障害物が少なくないんだ」
ゴンザレは肩を竦める。 レーダで障害物を見つけたとしても、『鎌』と『ニュー・ホープ』の相対速度は秒速20kmを超える。 避けるどこ
ろか、警告する暇があるかどうかも怪しい。
「チャン。対磁バリアのレベル確認」
船長がそういった途端、『ニュー・ホープ』が小さくない揺れを起こす、同時に耳障りな警報音。
「リポート!」船長が命じた。
「船体に衝撃、ダメージ警報」船体構造、動力状態を監視していたチャン副長が刑法を止め、ダメージ箇所を確認する。「発生箇所は…
バイオセル3!」
ブリッジが静まり返った。 3つある『バイオセル』は全長50mに及ぶ円筒形の巨大なモジュールで、主船体に平行して取り付けられている。
内部には水耕栽培と魚類の養殖施設があり、食料と酸素の供給を司る生命維持の重要施設だ。 もっとも、宇宙船に重要でない場所は
ないのだが。
「今はバイオセル3内に乗務員はいない。ルウ、バイオセル3環境確認」 船長は声を抑え、冷静を装う。
「前部連結部…自動閉鎖確認、後部連結部…自動閉鎖確認」ルウが年に似合わぬ落ち着いた声で応える。「EPS閉鎖、バイオセル3
閉鎖完了。テレメータ確認に入ります」
限られた乗員しかいない宇宙船では、13歳の少年であっても遊ばせておく余裕はない。 ルウは副オペレータとして船の環境監視を担
っていた。
「リポート、バイオセル3、環境ダメージ」
「…気圧低下中…船内標準の80%で低下停止…上昇に転じました」ルウがほっとした口調になる「バイオセル3環境を維持しています」
「…」機関士のゴンザレス、航法のマハティーラがふうっと息を吐いた。
「リポート。メイン・ブロック環境、生命維持」船長が静かに言う。
「バイオセル連結部に気圧低下…回復中。温度、湿度異常なし。生命維持に問題なし」
「了解」船長はマイクを取った。
”船長だ、バイオセル3に問題が発生、自動対応装置により閉鎖は完了した。船に問題はない”
「それはよかったわね…」まぜかえしたマハティーラを船長がじろりと睨み、彼女は舌を出しで首をすくめる。
”技術部、ランセン技師長。バイオセル3の補修ロボットを起動し状態を調査、異常はブリッジに報告、3時間後に食堂でミーティングを行う”
船長は一息おく。
”まだ『鎌』の傍だ!気を抜くな”
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