ヌル

第一章 伯爵夫人(1)


 大陸の端、海から少し離れた場所にヌルの町があった。 一番近い港町までは歩いて一日半の距離があるその町は、

近隣の村々に農具や家畜、その他の品物を供給する商工業で賑わっていた。

 町を作るにあたって尽力したしたのがヘイオー・ヌルという人物で、それから数えて三代目になるカンバス・ヌル子爵が現在の

領主を務め、彼は、町から少し離れた湖のほとり館を構えていた。


 「奥様、失礼します」  

 カンバス子爵の妻、マドレーヌは書物から目を上げた。 筆頭メイドのセリアが、昼食をのせたワゴンを押して戸口に立っている。

 「お入りなさい」

 マドレーヌは本を閉じて寝台の枕棚に戻す。 その間にセリアは手際よくベッドテーブルの上に昼食を並べると、マドレーヌが

横になっている寝台の上にそれを設置する。

 「ありがとう」

 セリアは、マドレーヌのネグリジェにナプキンをかけて一歩下がる。 マドレーヌはほっそりした指で小さなスプーンを取り上げて

ゆっくりした動作で野菜のスープを口に運ぶ。 しばらくして、マドレーヌが食事を終えると、セリアはベッドテーブルの食器を

ワゴンに片づけ始めた。 マドレーヌはそのセリアの背に声をかけた。

 「セリア」

 「はい?」

 「もう『都』についたかしら……」

 セリアは、片づけの手を止めて振り返り、夫人の目をみながら応えた。

 「天気が問題なければ、もう到着されたと思います」

 「そう……あの人も、これで伯爵におなりなのね……」

 セリアは夫人の寂しそうな顔に顔を曇らせ、何か言いかけた。 が、結局何も言わずにワゴンを押して部屋を出た。

 「おかわいそうな奥様……」

 
 このあたりの土地は『都』を中心とした領主たちによる合議制で治められていた。 『都』が権力の中心地ではあるが、『都』の

役割は富の再分配と情報の集約、配信で、町や村といった地方自治の頂点は各地の領主だった。 領主は世襲制で、その

心配事は主に二つ、税収の拡大と血統の存続だった。 ヌル子爵領ではヌルの町と近隣の村々からの税収が順調な伸びを見せ

子爵から伯爵への『格上げ』が決まり、その拝命の為に領主のヌル子爵が『都』に出向いていた。 何がどう良くなるかわからない

が、とにかく格上げされるのは喜ばしいことのはずなのだが……


 「セリアさん、奥様のおかげんは」

 ワゴンを押して厨房に入ると、新米メイドのミリがセリアに話しかけてきた。 セリアは、ミリにワゴンの形付けを命じ、厨房の

様子を確認する。

 「ミリ、心配はわかりますが、あまり口にするものではありませんよ」

 「あ……すみませんセリアさん」


 子爵婦人のマドレーヌは、しばらく前に事故で大けがをし、一命はとりとめたものの、腰から下が動かなくなってしまった。 子爵と

夫人の間には子供がおらず、このままでは子爵家が絶えてしまう。 そのため、親せきから養子を取るべきかと考えていたところに

伯爵家への格上げが決まったのだ。

 
 「今日、訪ねてこられる方はいませんね?」 セリアがほかのメイドたちに尋ねた。

 「予定ではありませんが……いきなり来られる方までは判りません」

 「それは言っても仕方がありません。 サリー、あなたたちで客間を片づけておいて下さい」


 ヌル子爵領が伯爵領への格上げされる事と夫人の不幸、この二つが相まって、ヌル子爵の館を訪問する『親戚』の数は増える

一方で、ヌル子爵が自嘲気味に『いっそ高級宿屋に商売替えしたほうが良いかも』と呟くほどであった。 ヌル子爵が『都』に

向かってからはさすがに数が減ったものの、昨夜も『遠い親戚』御一同が宿泊し、今朝遅くに館を去ったばかりだった。 半身不随と

なったうえに連日の来客攻勢、夫人は心身ともに疲れ切っていた。


 「サリー、夕餉の支度をはじめて下さい」

 セリアの指揮の元、館の留守を守るメイド達は午後の仕事に取り掛かかる。

 「ミリ、湖に行って森番から明日の食事に使う魚をもらって来て」

 「はい!」

 館が立っているのは湖のほとりだが、湖の岸立っている森番の小屋まではそこそこ距離があるので、新米のミリがいかされた。 

ミリは軽快な足取りで湖までの道をかけ抜け、森番の小屋の戸をたたく。

 「おじさん!」

 「おじさんはなかろうが、嬢ちゃん」

 森番は初老の男性で、そろそろ『おじいさん』と呼ばれそうだが、メイドたちは気をきかせて『おじさん』と呼ぶことにしていた。 

森番は仕掛けに入っていた魚を、水辺の草で編んだかごに入れてミリに渡す。

 「少し重いかな」

 「大丈夫だよ!」

 元気よく応えたミリは、かごを背負って小屋を出る。

 「と、どっちから帰ろう?」

 館から森番の小屋までの道は二つ。 一つは林の中を抜けて森番の小屋に出る道で、もう一つは湖の岸辺に沿って進み、領主

の小船が舫ってある小さな桟橋の所から館に戻る道だ。 林を抜けるほうが近く、来るときはそちらを通ったのだが、湖の岸辺を

回ったほうが景色は良いし、たいして距離も変わらない。 少し迷った後、ミリは湖の岸辺を回って帰ることにした。


 「伯爵様かぁ……『都』ってどんなところなんだろ……」

 かごを背負ったまま、ミリは湖の岸の砂をサクサクと踏みしめて歩いていく。 と、先のほうに何か光るものが見えた。

 「あれ?」

 ミリは歩みを速めて光るものに近づいた。 近くで見ると、何やな金属でできた丸いものが砂に埋まっている。

 「わーっ。 凄い。 こんなもの初めて見た」

 直径は背中に背負ったかごと同じぐらいで、ピカピカに光っているが正体がわからない。

 「お台所で使う鍋が伏せてあるみたい……でもこんなに光ってきれいなお鍋があるのかしら」

 ミリはかごを下ろし『鍋』の周りを掘ってみたた。

 「あれ? お鍋じゃないのかな?」

 伏せた鍋かと思ったが、砂に埋まっていた部分は、上に覗いていた部分が逆さになった形で続いていた。 つまり円盤型の

金属だったわけだが、彼女にはそれが何なのかわからなかった。

 「軽いけど?」

 彼女はしばらく謎の円盤をあれこれひっくり返していたが、自分がお使いの途中だったことを思い出した。

 「いけない……でもこれも気になるし……」

 少し考えてから、ミリは円盤をかごに入れて屋敷に持ち帰ることにした。 正体がわからないが、金属性のものは高価で貴重だ。

であれば館に会ったものかもしれないと考えたのだ。

 「ただいま帰りました」

 「遅かったですね。 なにか問題でも」

 ミリは帰りが遅くなったことをセリアに咎められ、湖のほとりで拾った謎の円盤をセリアに差し出したが、セリアにもその正体は

判らなかった

 「お暇なときに奥様に聞いてみましょう」

 セリアはそう言って、謎の円盤を倉庫にしまった。

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