ヌル

プロローグ(1)


 此処ではない何処か、今ではないいつか、そこに人が住まう世界があった。

 人々は、生きる為に木を燃やして暖を取り、作物や家畜を育てて糧を得る暮らしをしており、地の底から油を

くみ上げて燃やしたり、天に輝く光の玉の力を集めて雷を作る術は、まだ会得していなかった。 もしかすると、

その時は遠い過去になってしまったのかもしれないが。

 この世界には、人以外にも言葉を操る者たちがおり。 多くの場合、彼らは人間にとって脅威となり、人々は

それらを魔物と呼んで恐れ、遠ざけ、神を祭って退けようとした。 その結果、神の代弁者となる者たちは、魔物へ

の対処を求められ、期待に応えられなかった者たちは民衆の支持を失う結果となった。 残った神の代弁者たちは

幾つかの組織にまとまり、最後は片手で数えられるほどの組織が残った。 その一つが『ミトラ教会』と名乗り、

それから長い時が過ぎた……

 ある大陸の中ほど、海からはかなり離れた山のふもと、深い森の中を突っ切るようにして一本の街道が走っている。

 港町から伸びた街道は山のふもとで方向を大きく変え、山裾を回り込むようにして高原の町まで続いていた。 

高原には質の良い牧草が良く育ち、畜産によって町は栄えていた。 そして町で働く人たちへ食糧を供給する

ために近くに農村が点在し、村々と町を結ぶ細い道が森の中をいくつも走っている。 そんな道の途中、旅人の

宿泊用に建てられた小屋の中で、怪しげな風体の一組の男女が何やら薄い紙片を前に話をしていた。


 「『……かくして、パイパイパーが去った事を、大勢の人々が喜んでくれた』……ふん」

 男は鼻を鳴らして読んでいた紙片を裏返し、沈みかけた日にすかしたりしている。

 「ミトラ教会のお偉いさんの広告かい……ろくな事書いてないぜ」

 男が紙を女に渡す。

 「まったくね、でこの与太話がどうしたのよ」

 女は、紙片の文字を拾う様に読んでいる。

 「大体あんた、字読めるの?」

 「馬鹿言うな、自慢じゃないが……」

 「つまらないことはいいから、先を話して」

 男は気分を害した様だが、思い直して紙片の後を示す。

 「こいつは都の教会が地方の教会に出した昔の手紙の一つで、後の方には新しい通行止めや立ち入り禁止に

なった場所が書いてあるんだそうだ」

 「ふん?」

 「で、そこには場所と一緒に理由が書いてある。 『月光蝶が住みついた』とか『ワスピーを見かけた』とかな」

 言われて女は、文の後の方を読んでみる。

 「『ロンの村とヌルの町を結ぶ街道、その山側の森を、立ち入り禁止とする』 理由が書いてないわよ?」

 女は顔を上げた。

 「そう、そこが肝心だ。 この文は、教会のファザーに見せてもらったんだが、彼も首を傾げてたよ」

 「わからないの?」

 「昔の文だからな。 だが、俺は聞いたことがあるんだ」

 「理由を?」

 「いや、理由を書かない場合が在ることを」

 男はニタリと笑った。


 翌日、二人は街道を離れ森の中に分け入っていた。 深い森は人が入らないらしく、木々の間に苔むした地面が

続いている。

 「下草がないのは在りがたいが、どうにも滑りやすくていけねぇ」

 「そうだね。 それより昨日言ってたことは本当かい? 宝を持った魔物が居るっていう」

 「まず間違いないぜ」

 男が聞いた話と言うのは、魔物の中には貴重な宝を持っているものがいて、教会はその事を隠していると言う

ものだった。 宝を持っていると言っても魔物が金銀宝石をため込んでいるわけではなく、美しい羽根を持っている

とか、鉄より堅い鱗が生えているとか、若返りの効能がある乳を出すといったものだ。

 「魔物自身が宝と言うわけかい」

 「そういう事だ」

 「でも、この辺りにそんな魔物がいるという証拠はないだろ?」

 「直接の証拠はねぇ。 でもそういう魔物がいる所には共通点があるらしい」

 「どんな?」

 「宝が取れる魔物がいれば、そこの領主や地主は裕福になるそうだ。 もっともな話だろうが」

 その話を聞いて女は考え込む。

 「確かにねぇ……でも、ヌルの町はともかく、ロンの村はそれほど裕福だったかねぇ」

 「昔の事だから魔物の数が減ったのかもな。 だが、立ち入り禁止が解けてネェってことは、まだ魔物が居るって

事だろうよ」

 男は自信満々だが、女の方は懐疑的だった。

 (立ち入り禁止にする理由なんて、ほかにいくらでも考えられるだろうに……これだから考えなしの奴は)

 女の想いと裏腹に、男の方はまだ見ぬ宝、魔物の事を考えて心がはやっている様で、ずんずんと森の奥に

進んでいく。


 「……」

 「で? ここはどこだい」

 二人は、森の終わりにたどり着いていた。 この先は勾配がきつくなり、木もまばらになって見通しがきく様に

なっている。 おかげで、この先が山に続く斜面で、何もないのが良く見えた。

 「だいたい、探すものが何かも分からずに能天気に森に踏み込んで……」

 「やかましい!」

 男は吐き捨てると、踵を返して森の中に戻っていく。

 「何処に行くんだい」

 「立ち入り禁止のは森の中だ、だったら森の真ん中あたりに何かあるはずだろうが!」

 女は肩をすくめて、男の後に続く。


 カチリ

 先を歩いていた男の足に、何か固いモノが触れた。 つま先で蹴ってみると、足元の地面が固く平べったい。 

しゃがみこんで、苔を剥がしてみる。

 「おお! これを見ろ!」

 男が示したものを女が見る。 倒れた石碑かなにかの様に見える。

 「どうだ! なんて書いてある?」

 女は、刻まれた文字を拾い読みしてみた。 難しい字が多く、半分ぐらいしか読めない

 「……森の賢者……言葉に従い……ここに……ヌルと……女たちが……」

 「なんだ、どういう意味だ?」

 「書いたやつに聞いてよ。 待って、最後に何か書いてある」

 ……

 「マ……? マジステール?」

 最後の文字を読むと同時に、二人の足元が崩れた。 悲鳴を上げるまもなく二人は地の底に落ちていった。


 ……

 ……

 ……

 「う?」

 男は目を開けた。 空気が冷たく、ひどく暗い。

 「どこだ? マルガレーテ?」

 女の名を呼んだが、声は返ってこない。

 「ちくしょぅ?」

 体の節々が痛むが、ひどいけがはないようだった。 痛む体を起こし、立ち上がって辺りを見渡す。

 「洞窟……じゃないのか?」

 上が暗いので最初は洞窟かと思ったが、辺りは広々とした空間で所々に木が生えている。 木に枝はなく、上の

方のでまっすぐ伸びて闇の中に消えている。

 「ここは……『森の底』か!」

 男は思い出した。 この辺りの木は、幹の一定の高さで細い枝を無数に伸ばし、互いに絡ませ合って『天井』を

作る。 こうすることで、根元に生える下草への光を遮って根を守るのだが、時間がたつと『天井』の上に枯葉や

何かが降り積もり、そこが第二の地面になる事がある。 そうなった時、元からあった地面を『森の底』と呼んで

区別していた。

 「しかし……広い『森の底』があったもんだ……」

 男は辺りを見回し、不思議なことに気が付いた。 渇いている。

 「妙だな?」

 『森の底』には天井で遮られて雨が降らないが、木の根があって暗い場所、湿気があってジメジメしていそうな

ものだ。 きょろきょろと辺りを見回していると、横たわる人影が見えた。

 「いたか!おい、大丈夫か?」 

 男は人影に駆け寄り、目を見開いた。

 「これは……なんだ?」

 それは彼の連れではなかった。 人の形をしていたが、人ですらないように見えた。 薄茶色をした幕の様な

材質で作られた、女の形をした何かだった。

 「まるで……虫の蛹だ」

 口にしてから、彼は思い出した。 自分がここに何をしに来たかを。

 「これか!? これが宝……しかし……」

 いまさらになってようやく気が付いた。 宝を持っている魔物がいるとして、何が『宝』なのか判らなければどう

しようもない事に。

 「……しかし……うーん……」

 男は、女形の『蛹』をしみじみと見つめる。 見れば見るほど見事な女体で、張りのある胸はいかにみ柔らかそうだ。

 おずおずと手を伸ばしてみる。

 「固い……」

 さすがにそこまではそっくりとはいかないようだ。 その時、手の下で『蛹』が震えた。

 「!?」

 慌てて飛び下がる男の前で、ピシピシと音を立てて『蛹』の縦方向に一筋。ひびが入った。 そして茶色い殻が

二つに割れ、中の物をさらけだす。

 「女……か?」

 中に入っていたのは、殻の形そのままの艶めかしい女体だった。 抜けるような白い肌に艶やかな黒い髪が

濡れて張り付いている。

 ゴクリ……

 知らず知らずのうちに、彼はつばを飲み込んでいた。 目を見開いたまま逃げることを忘れた男の前で、女は

静かに身を起こす。

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