紫陽花
13.それぞれの思惑
「夜が明けた…か…」
寝不足の目で、明るくなってきた外を見渡してユウジは呟く。
せめて雀のさえずりでも聞こえたら、いくらかましな気分になるのだが…サー…生憎と雨が降り続いている。
ため息をつき、のろのろと登校の準備を始める。
「とにかく…先輩に話をするまでは人のいる所にいないと…」
…昨夜、ユウジはイルマがいなくなってからしばらく、茫然自失の状態に陥っていた。
やがて我に返ると、また『喰われる恐怖』に襲われ、夜逃げの仕度を始めた。
「追ってきた…追ってくる…逃げなくちゃ…逃げなくちゃ…」
下着を鞄に詰め込み、財布と携帯を持って部屋を出ようとして足を止めた。
「逃げる…どこへ…」
ドサッ…鞄が床に落ちる。 ストンとベッドに腰掛け、頭を抱える。
そして、今後の事を考える…
落ち着いて考えると、『逃げる』事に強い抵抗を感じた。
それに、ヒロシとヨシミツの事がある。 二人に起こった事に、自分にも責任があるのかどうかわからない。
しかし、ヨシミツがああなった時に、先生か寮の管理人、あるいは警察に話すべきだった。
(悔やんでも仕方ない…今からでも…)
そう思い、話す内容を頭の中でまとめる。
(まず、美人のお姉さんが足をくじいていて、助けて送っていったら、そこがソープ…)
そこで引っかかった。 確かこれは法律に反する行為だし、寮則では退寮処分にあたる行為だ。
が、そんな事を言っている場合ではないと思い直し、先へ進む。
しかし、ヨシミツとヒロシがソープ嬢に呑み込まれたなどという話を信じてもらえるかと考え、絶望的な気分になる。
(俺だって、他の奴からそんな話を聞かされたら信じないぞ…)
作り話をするか、信じられそうも無い部分をぼかして話す事を考える。
「駄目だ…それでは話す意味が無い」
ヨシミツ達が消えた事を伝えるだけならばともかく、自分が彼女達から逃れるには本当の事を話し、それを信じてもら
って助力を得る必要がある…ユウジはそう結論した。
(そうなると…話せる相手は限られる…先生やおやじ、おふくろは駄目だ…俺を信じてくれて頼りになりそうな知り合
いは…)
そう考えると、真っ先にマリアの顔が浮かんだ。 心臓の鼓動が速くなる。
「何を考えてんだ…俺は」うめき声を漏らす。
(友人…ヨシミツ!…くっ…)今度は胸が痛む。
頭を強く振って罪悪感を追い出し、さらに考える。
(他の寮生…駄目だヒロシがどうなったか考えてみろよ…部活の先輩も同じ…まてよ…)
そこまで考えて、部活のOBに思い当たる。 柔道部のOBには、腕っ節を生かした職業についている先輩もいたはず
だ。
(確か…三島先輩が警察に勤めてた…うん、三島先輩ならは頼りになる…あの時も…?…あの時?…あ…)
そこまで考えて、別の先輩を思い出した。
三島先輩と同じ柔道部のOBであるが、およそ『頼りがいのある先輩』とはいえない人物を。
その先輩は、いわゆる『拝み屋』をやっていた。 拝み屋といってもいろいろあり、まじめ(?)にやっている人も…たま
にはいる。
だが、岩鉄−−彼はそう名乗っていた−−は、不幸な目にあったり、難病にかかっている人の所におしかけ、妖しげ
な祈祷を行って祈祷料をふんだくる、拝み屋というよりタカリ屋だった。
ユウジが彼と会ったのは、柔道部の県大会の打ち上げの席だった。
ヒグマと格闘できそうな体格の持ち主で、羨ましく思ったものだ。
ところが、酒癖は悪いは、食い意地の汚いはで皆を閉口させた。 そして、ユウジ達後輩に絡んできた。
その時、間に入ってくれたのが三島先輩だった。
(やな奴を思い出したちまった…まあそれは置いといて)
舌打ちをして、考えを戻す。
(三島先輩に話して…もし信じてくれなかったら?…)
不吉な考えが頭をよぎるが、他に頼れそうな人を思いつかない。
(とにかく相談してみよう…)
顔を上げると、丁度夜が明けるところだった。
(今日は休もうか…いや、ここにいるのは危ないかも…)
根拠は無いが、人の大勢いる所のほうが安全な気がする。 ユウジは、登校したうえで学校から三島先輩に電話し、
連絡がついてから警察に三島先輩を訪ねる行く事にした。
−− 『紫陽花』 −−
イルマが『紫陽花』に戻る、マリアとアロマを除いた全員は、まだ奥の一室に集まっていた。
「というわけぇ…」
報告を終えたイルマが床にへたり込んでいる。
脱力しているようにも、ひどく疲れているようにも見えるが、その顔には満足感が溢れている。
他の女達はイルマの話を黙って聞いていた。
こちらの方には、あきれたような表情や、妬ましげな表情が浮かんでいる。
「イルマぁ…」「あんた何しに…」
何人かがイルマを詰問しようとするが、静が手で彼女達を制する。
「ご苦労様、イルマ。 あなたは、もうおやすみなさい」
イルマは気だるい様子で頷き…ズルズルズル…そのまま這いずってどこかに消えて行く。
イルマがいなくなると何人かが、静に話しだした。
「静姉、今度は私が」「いえ私が」「いっそみんなで…」
「おやめなさい」静が静かに言い、続ける。
「イルマの誘惑が通じない…彼はマリア姉様の感触を忘れられないのかも知れませんよ」
そう言われて、女達は黙る。
「ねー、でもそうするとマリア姉様が自分で行かないと駄目って事?」
真紀の隣に座っている、8才ぐらいに見える娘が言う。
「虜にする事はできないでしょうね…」静が答える。
「でも、『夢』を見せて差し上げれば…素直に来て頂けるかも」
ザワッ…女達がざわめく…
「静姉…交わらずに『夢』に取り込むなんて…」
「マリア姉様か…静姉だけ…まさか…」
静が頷く…
「私が、参ります。 そして心を込めて『説得』致しましょう」
そう言って、静がすっと立ち上がる。 が、小首をかしげて「…夜が明けてしまいましたね…」
他の女達も、辺りを伺うような仕種をし、頷く。
「私では、昼間から『夢』を作るのは無理…仕方ありません。 夜を待ちましょう」
サー…『紫陽花』の周りにも雨は降り続いていた。
そして、夜明けと共にソープランド『紫陽花』が少しずつ霞んでいく…
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