第三話 死人茸
3.一人身
チチチチ……
かしましい雀の鳴き声で目が覚めた。
男は気だるげに体を起こすと、額に手を当て、昨夜の記憶をたどった。
「!」
彼は跳ね起きるように立ち上がり、その勢いでベッドから転がり落ちた。
鈍い痛みを背中に感じながら、立ち上がって部屋を見渡す。 そして千切れんばかりの勢いで毛布をめくり上げる。
「……」
ベッドの上には何もなく、ただ差し込む朝日に埃が舞うだけだった。
「何もない……あれは夢か」
すとんとベッドに腰を落とし、がっくりと頭を垂れた。
ほっとしたような、がっかりしたような空虚な時が流れる。
「こうしていても仕方ないか……」
長い一人暮らしの為、思ったことがすぐ口に出る。
取り込んだまま山になっている洗濯済みの下着の塊から、よれた靴下を引きずり出して身をかがめた。
「?」
視界に入ったわき腹辺りが妙に白っぽい。 覗き込むようにして、手でさすってみる。
「なんか、妙だな?」
年季の入った皮膚には、細かい皺がや黒っぽいしみがあちこちに見られるのだが、そこだけ皮膚が白っぽく若々しい。
触っても感覚が鈍い。
「……医者に聞いてみるか」
「痛みはあったが、すぐ止まった?……そうですか」
若い医師は、パソコンで病状を書き込みながら相槌を打つ。
彼に取っては他人のことなのは間違いないが、態度があからさますぎて不愉快だった。
(患者に同情するふりぐらいできないのか……)
「ほかにはなにか」
「はぁ、何かわき腹の辺りが変なのですが」
医師は顔を向け、彼にそこを見せるように促し、男は言われるままにシャツを捲り上げた。
「……」
医師はわき腹の辺りを触診し、首をかしげた。
「検査してみましょう。 少しサンプルを取りますね」
そう言いながら、医師はピンセットで皮膚の端を無造作に摘み取る。
男は医師がますます嫌いになった。
軽く頭を下げつつ、背中から診察室を出る。
振り返ると、待合室の長いすに墨染めの衣を着た雲水が座っていた。
(……不吉な)
口元を微かにゆがめ、長いすの反対の端に座り、診療費の清算を待つ。
「女に会うたか」
雲水がぼそりと言い、男はぎょっとしてそちらを見た。
「憑かれておる」
雲水が男を見返す。
「表で待っておれ。 祓って進ぜよう」
30分後、彼は雲水の後をついて歩いていた。
やがて、古びた寺の山門が見えてき来た。
男は、薄汚れた山門の前まで来ると、掲げられた扁額を見上げた。
『浅学寺』
男は微かに顔をしかめ、雲水はそれに気がついたようだった。
「戒めじゃよ。 人間、自分思っているほど利口ではないという」
雲水は男を本堂に案内し、板張りの床に座らせ、自分はその向かいに座った。
「わしは蒼海と名乗っておる」
「蒼海和尚ですか?……ん?」
男は当たりに漂う匂いに気がついた、煮物かなにかの様だ。
「御住持。 昼餉がまだなのでは?」
「気になさるな。 本題に入ろう」
そう言って、蒼海は何やら巻物を取り出す。
「ぬしは、目のない女に会ううて、交わったであろう」
「!」
「そして、その女は直後に白骨に転じた……違うか?」
「い、いえその通りで……」
「そして、その女に良く似た女が、夜な夜な夜具の中に偲んできておろう!」
蒼海が、ずいと彼を指差し、彼は思わずあとずさった。
「その女は人ではない! 妖しじゃ!」
「あやかし……妖怪ですか?」
「うむ、その名は……『妖怪フケフケ女』!……これどこに行きなさる」
「たちの悪い冗談を聞きに来たわけではありません」
怒って帰ろうとする男を、蒼海は必死に引きとめた。
「いや、あまりに恐ろしいげな名前なのでな、今風に『あれんじ』してみたのじゃ」
「それで?何という妖怪ですか?」 不機嫌そうに男は聞いた。
「その名は……『死人茸』」
蒼海が巻物を広げると、そこには墨で書かれた様々な妖怪の姿と、なにやら文字らしきものが書き連ねてあった。
蒼海はその中の一つ、幽鬼の様に佇む着物姿の女を指差した。
「そは女性(にょしょう)の姿にて表れ、死に瀕し男子(おのこ)に春をひさがん。 交わいし後、女、骨に転じて男に憑かん。
しばし後、男往生せしめれば、女その肉を食らいて蘇らん。 まっこと恐ろしきかな」
男は、雲水の読み上げた内容を頭の中で整理し、愕然とした。
「……その妖怪は男にとり憑いて、男が死んだ後その体を貪り食う……」
蒼海は頷いた。
「伝え聞くところでは、こやつは名前の通り茸が転じた妖怪でな。 死に瀕した男に胞子を取りつかせ、宿主に淫らな夢を
見せては残り少ない精気を吸って成長し、宿主の死期を早める」
「な!」
「そして、宿主が息絶えた後、その肉を食らい尽くして新たな『死人茸』となるのだそうだ……おお岩鉄、できたか」
男が呆然としている間に、岩の様に逞しい大男がぐつぐつと何やら煮えた鍋を持って来た。
「叔父貴、ここにおくぞ」
岩鉄と呼ばれた大男は鍋をその場に置き、どすどすと足音を立て、どこかに行ってしまった。
「……御住持」 男はしばらくして我に返った。 「た、助けてください」
「うむ、まかせんしゃい。 茸の妖怪にはこれが一番じゃ」
蒼海は鍋を抱え上げる。
「それは?」
「茄子の煮汁じゃ。 茸の怪異では必ず出てくる。 ほれ、なーすの煮汁、なーすの煮汁、なーすの煮汁がこーわいよ……とな」
「はぁ?」
「これをおぬしの頭からかけるのじゃ。 さすれば茸の妖怪などたちどころに……」
男が立ち上がった。 怒りで頭が沸騰しそうだ。
彼は鍋をひったくると、蒼海の頭の上でそれを逆さにした。
あっち、あっち、あちちちちちちちち……
本堂の床の上で奇妙な踊りを踊っている蒼海を残し、男は浅学時を後にした。
(畜生! どいつもこいつも……おれは、おれは!!……)
不意に男は悟る。 家族がいないとは、独身であるとは、天涯孤独であるとはどういうことかと。
(おれは……一人なんだ……一人で死ぬんだ)
逃れようのない絶望の中で、男は慟哭した。
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